夏来にけらし雪見草

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夏来にけらし雪見草

 強い風が運ぶのは、咲きほころぶ花の香でも近づく夏の気配でもなく、戦場を舞う砂埃と硝煙と、血の臭いだった。  黒い洋式軍服の上に、旧幕府軍――箱館政府の、軍目としての目印でもある陣羽織を重ねた男は、埃まみれになってしまった馬具を軽く払うように叩く。そしてひどくおとなしい馬の手綱を掴んだまま、同じような恰好をしている目の前の相手をじっと見つめた。 「どうしました、大野さん。もうあまり時間が、」 「安富」  短い日々の中で呼びなれてしまった名を口にして、大野は場違いに笑ってみせる。  ここは末期を迎えた戦場。新政府軍を名乗る敵軍からの総攻撃の合間、僅かに設けられた停戦の時間。箱館の市街を押さえられ、湾を占拠されて、援軍も期待できない味方の戦況は絶望的。だが、五稜郭内の本陣は降伏勧告を拒絶し徹底抗戦を決めた。  これから大野が戻る弁天岬の台場は、市街、海、そして箱館山と、すべてを敵に包囲されている。本陣が戦うと決めたならそれに従うことになるが、果たしてどれだけ持つか。  何より二人は、この上なく大切な者を失ったばかりで。  それでも大野は笑って見せた。彼にしては珍しい、どこかぎこちない笑みを。  ――彼はいつだって、どんなに絶望的な状況でも笑っていた。迷わず笑って進んで行けば、必ず道は開けると信じていたから。  だから、そんな彼がうまく笑うことができないのは、もうどうしようもないのだとわかっているからなのだろう。  どうすることもできないとわかっていて、それでも彼は笑う。 「安富、一緒に行こう」  そうしてまっすぐに伸ばされた手のひらを、安富は手に取ることができなかった。  できるはずがなかった。相手もそれがわかっているからうまく笑うことができないのだ。  これがきっと、二人のさいご。もう二度と会えないかもしれない。  けれど自分にも相手にも、それぞれ大切な人から託されたものがあったから。相手の手を取るためだけに、何もかもを打ち捨てることはどうしてもできなかった。 「さようなら、大野さん」  そしてそのまま、それっきり。
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