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食べさせて欲しい? 彼が? 僕に?
想定外の申し出に固まっていると、対面している彼が子供の頃の自分の姿と重なった。
「食べさせて」と言った僕に、母はにっこりと微笑みながらわがままを聞いてくれた。「風邪っぴきさんには特別よ」と言いながら、いつも以上にやさしく接してくれたのだ。
「は、ははっ、すみません。やっぱり無理ですよね。なんか俺、今ちょっとおかしいのかもしれません」
「……」
「食事まで作っていただいたのに、変なことを言って本当に申し訳ありません。有り難くいただきます」
受け取ろうとした佐谷さんに、僕は皿を渡さなかった。
「……相楽さん?」
「今回だけですよ」
「えっ」
「こういうのは慣れていないんです。風邪を引いている今回だけですから、このことは絶対に誰にも言わないでくださいね」
皿の中のリゾットからは温かい湯気が上っていた。チーズが入ってとろみがついているから、このまま食べると熱さで舌をヤケドしてしまう。
僕はスプーンを口元へ持っていく前、何度か息を吹きかけて掬ったリゾットをよく冷ました。子供の頃、母が僕にしてくれたことと同じことだ。今の佐谷さんはあの頃の僕で、僕はあの頃の母なのだ。
「さあ、佐谷さん」
冷ましたリゾットを差し出すと、手を伸ばして佐谷さんの口元へ近付けた。
半開きの彼の唇は熱のせいで乾いていた。口の中の唾を飲み込んで、喉の奥がゴクリと鳴った。
「佐谷さん?」
「……やっぱり」
「はい?」
「やっぱりいいです。自分で食べます、すみませんっ」
「えっ?! あ、あの」
佐谷さんは慌てた素振りで口を覆うと、反対側を向いて僕から顔を背けた。
「佐谷さん? どうしたんですか?」
「いや、これは、何でもないです。俺が悪かったです、本当にすみません」
「あの、何のことか全く分からないのですが…」
「と、とにかく、変なことを言ってすみませんでした。今のことは忘れてください」
いつまで経っても佐谷さんはこちらを向こうとしなかった。
何か気に障ることでも言ってしまっただろうか。もしかして、男の僕が自分の息でリゾットを冷ましたことが気持ち悪かったのか。
行き場がなくなったスプーンを戻すと、僕はとりあえずテーブルに皿を置いた。
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