食事

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食事

 こうやってゆっくりと食卓を囲むのは久しぶりだ。  彩子はテーブルに二人分のシチューをよそい、席へとついた。 「お母さんも、食べるの? こんな時間に平気なのか?」 「うん、まあね。久々にあなたと一緒に食事したいし」 「なんだよ。あなたなんて呼び方、久々じゃないか?」 「だって、彩香はいないんだもの。いいじゃないの」 「それもそうだな」  彩子は彩香が産まれてからというもの、徹底的に互いの呼び名を『お父さん、お母さん』で統一するよう言ってきた。  本当は受験対策用に『お父様、お母様』がいいと希望したのだが、一般的なサラリーマン家庭にその呼び名ではかえって浮いてしまうと俺が反対した。 「いただきます」  ゴロリとした大きな肉の塊をスプーンですくい、口に運ぶ。先ほどまでのしっかりした形が嘘だったかのように、肉は舌の上でほどけていった。 「美味い! これ、ホントに硬い肉だったのか? すっごく柔らかいけど」 「本当ね。切った時はすごく硬くて大変だったのに」  俺は皿を舐めるかのようにあっという間にシチューを平らげた。  彩子は一口ひとくちを味わうかのように、何度も咀嚼しては喉を鳴らすように飲み込む。  目が合うと、スプーンを置いてクスクスと笑った。 「あなた、口の周り汚れてるわよ」 「え?」  慌ててティッシュで口元を拭き取る。べっとりと、脂にまみれた茶色い唇の形がついた。  そのキスマークを彩子に見せると、彼女はさらに声を上げて笑う。  穏やかな空気の中、俺はほっとして、空っぽの皿を彩子に差し出した。 「おかわり」 「はいはい」  キッチンへと向かう彩子に、俺はそれとなく話しかけた。 「よかったよ。もう、元気になったんだな」 「え?」  聞こえなかったのか、質問の意味がわからなかったのか、彩子の返答は疑問符を浮かべるだけだった。 「あんなに頑張ってた幼稚園の受験、ダメだってわかった時は、今にも死にそうな顔してたからさ。彩香もあんなに一生懸命だったのになあ」 「そんな顔してた?」 「してたよ。俺、声かけられなかったもん。でも、今行ってる幼稚園だっていいところなんだろ? 俺は落ちてよかったと思うよ。あんな小さい頃から勉強勉強なんて、息が詰まっちゃうぜ」  
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