扉を開けて

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彼は困った顔で、しばらく私の頭を撫でてくれていたけれど、じきに私の腕を引いて、歩き始めた。 「あのアパート、ちょうど空きがあったけぇ、さっきそこに決めて来た。 親父さんから鍵も貰うたし、行くか? これ以上泣くんじゃったら公道の真ん中じゃのうて、そこにしてくれぇや」 「同じ、トコ?」 「おう。気楽な独り者にゃあピッタリじゃけぇのう」 彼の歩みが止まった。 「……お前は?」 私の腕を掴む彼の指が、ためらうように二度、三度と握り直された。 「お前は、一人なんか? まだ」 傍らの私を見下ろす彼の瞳が、揺れた気がした。 「……ひくっ」 ものも言えずに、私は何度も頷いた。 「……ほうか」 彼はまたゆっくりと歩き始める。 「ドラマ、チック、に街の、真ん中、で抱きしめる、とか、ないの?」 しゃくり上げながら、切れ切れに言う私に、彼はまた、笑った。 「お前、馬鹿じゃろ?」 「一生、モノ、だし。ひくっ」 「ははは」 泣きすぎてしゃっくりまで出てきた私を、彼はさらに笑う。 私の腕を掴んでいた彼の指が、私の手のひらに滑り降りて来た。 私の指を絡め取った彼の右手が、そのままジャケットのポケットに突っ込まれる。 ポケットの中で、手の甲に触れた、鍵が。 チャリ…と音を立てた。 一歩ごとに腕が、肩が、触れ合う。 そのたびポケットで、鍵が鳴る。 ひんやりと固い鍵が、熱くなっていく手に、心地よかった。 「土地家屋調査士の資格、取れたんか?」 「まだ。……2回、連続、落選中、ひくっ」 「やっぱお前、馬鹿じゃろ?」 「鋭意、絶賛、ひくっ、努力中、なの!!」 涙でこれ以上はないくらいぐちゃぐちゃになった顔で、私は彼を見上げて睨んだ。 「……そんな顔でこっち見んでくれ、頼むけぇ。 アパートまで我慢できんようになる、面白過ぎて」 「可愛過ぎて、の、間違い、でしょ、ひくっ」 「はは、……そうとも言うかのぅ」 ポケットの中の指が、ゆっくりと、もう一度握り直された。 鍵がまた、チャリ…と音を立てた。 「ひくっ、……おかえり」 「おぅ。……ただいま」 あの身を切るような春の夜、二人を隔てた、固く冷たかったドアを、 今度は春近い日射しの中で、二人の手で開けよう。 そしてそこから、私達はもう一度、 始める。 Fin.
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