レシピ

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「おかえり」 キッチンの向こうから、母の声がした。 “ただいま” 優しいミルクスープの匂いが鼻腔をくすぐった瞬間、ふと目が覚める。 ああ、夢か・・・。 匂いまで感じるなんて、ずいぶんリアルな夢だったな。 ん?違う。 本当に匂いがするぞ。 リビングに続くドアを開ける。 「おはよう」 キッチンの向こうから、妻の声がした。 「ああ、おはよう・・」 カウンター越しに、コンロの鍋を覗き込む。 ほのかなバターの香りに包まれたミルクスープ。 懐かしい匂いだ。 「・・・昨日ね、お母さんのノート見つけたの」 妻は静かに微笑みながら、所々にシミの付いたキャンパスノートを手渡してきた。 そっと開くと、ページいっぱいに母の筆跡で料理のレシピが書かれていた。 日付は、俺が幼稚園から小学校1年生くらいまでのものだ。 好き嫌いの激しかった幼少期、母はいろんな工夫を施して料理をしてくれた。 中でも、このミルクスープが気に入っていた俺は、何度もリクエストしたものだ。 「また食えるなんて、思わなかったな」 そうだ、もう二度と味わうことは無いと思っていた。 5年前に父を見送った。 新緑が眩しい、5月のことだった。 葬儀が終わって落ち着いたころ、一人になった母をこちらに呼び寄せようと話を持ち掛けたが断られた。 「ありがとうね。気持ちだけ受け取っておくわ」 柱に残った傷をそっと指でなぞりながら、母は寂しそうに笑っていた。 俺の成長を記した、柱の傷。 父と過ごした家と土地を、手放したくはなかったのだろう。 静かにつつましく暮らしていた母の訃報を聞いたのは、それから4年後の朝だった。 主を喪った家は、途端に軋んで傷み出す。 この一年間は月に一度、車で2時間という距離を、風を通すためだけに帰っていた。 母の生前は、せいぜい半年に一度行けばいい方だった。 いつでも会いに行けるという思いが、足を遠のかせていた。 ハンドルを握りながら、もっと会いに行けば良かったと、何度思ったことだろう。 先日母の一回忌を終え、実家を処分することに決めた。 これからもずっと、誰も住まない家を管理していくのは難しいからだ。 少しずつ家の中を整理し始める。 玄関を入った瞬間、胸がチクリと痛んだ。 家の築年数からして、不動産屋に引き渡した後は更地になるのだろう。
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