oneself

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   彼と別れるには、まず部屋を借りなければならなかった。殆どいっしょに、暮らしていたから。何より家は知られている。一方的に別れるのだ。引っ越さなければならないと思っていた。  幸い、貯金はかなり在って、お金には困らなかった。 「大丈夫ですか?」  酷く憔悴した自分を、不動産屋の担当者は心配そうに見返していた。 「すみません。ここのところ忙しくて……寝不足でしょうか」  無理に笑うと、担当者も気の毒そうに「そうですか」と苦笑した。次いで「何かご希望が在りますか」要望を訊かれた。自分は「特に無いです」答え「あ、」一つだけ、と声を上げた。 「家で仕事することが多いので、静かなところが良いです」  外で打ち合わせが無いことも無い。けれども基本は家での作業だ。他はどうでも良いけれど。  駅から遠くても、近くにコンビニが無くても、何でも良い。車は在る。仕事はインターネットで何とでもなる。だから。  むしろ駅圏内での活動が主な彼から遠ざかりたかった。  担当者は書き込む。見えた字はきれいだった。指には。 「……ご結婚されているんですね」 「え、……ああ」  自分の指輪に注がれる視線で気付いたらしい。気付くと、ちょっとだけ頬を染めた。 「先月、入籍したばかりで」 「それは……おめでとうございます」  笑んで、祝辞を口にする。心から、そう思う。偽りなど無い。ただ。  彼とは有り得ない未来に、胸と喉が搾られただけだ。  紹介されたところは、本当に静かなところだった。見に来たのは昼間だったのに遠くの喧騒が耳に入るくらいで隣人の物音も。仕事でいないのだろうか。にしても、静かだ。  何も無いみたい。空っぽの部屋は日当たりも良く、角部屋。駅から徒歩四十分。駐車場込みで────。 「ここにします」  気に入った、と言うより、ぴったりだ、と感じたからだ。  今もこの先も、何も無い自分に、これ以上似つかわしい部屋は無い。 「え、他の部屋は……」 「ここで」  ファイルを捲り問う担当者に告げる。担当者は「そうですか? 畏まりました」と頷いた。 「じゃあ、契約を……」 「はい」  一旦店に戻る。仮契約をして、後日本契約となった。
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