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6年後。 久しぶりに降りた東京は、長野とは違った身を切るような冷たい風の底に沈んでいこうとしていた。 学生時代に住んでいた S区の街は見知らぬスピードで様変わりして、ちはるは6年という月日とともに迷いながら道をたどった。 見覚えのある三叉路には、白く近代的な建物がにぎやかに人を吸い込んでは吐き出している。かつて公園だった面影はない。 ちはるは「区立劇場ホール」と看板を掲げるその建物に足を踏み入れた。決して大きくはない。それでも音響設備の評判がいいミニホールで、多くの演奏家が好んでリサイタルやコンサートを開く。 チケットを見せ、ちはるはロビーの柱に視線をとめた。 「大江奏デビューリサイタル リゲルの夜に」と堂々と書かれたポスターの上で、ヴァイオリンを構えた青年の瞳が、燃えるような輝きを宿して見る者を圧倒している。在学中から天才ヴァイオリニストとして名をはせ、その容姿からメディアにも度々とりあげられている人物だった。 「デビューリサイタルは、絶対ここでやるんだと決めていたそうよ」 ささやかれる会話に、ちはるは昔この地で少年とやりとりした手紙を思い出しながら防音の厚い扉をくぐった。 〈……ちはるさん。何年後かは分からないけど、きっとこの街でリサイタルをします。そうしたら聴きにきてもらえますか?〉 最後に受けとった手紙は、大江奏(かなた)という名前の持ち主からだった。 かつてリゲルと名乗って手紙をやりとりした相手が、大江奏という青年に成長してそこにいる。 本当にオリオン座のリゲルになったように、今のちはるには遠く眩しい。
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