王様の耳はロバの耳

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 その奇妙な店は、「王様の耳はロバの耳」という店名だった。  日常の生活をおくる上で膿のように溜まる愚痴を遠慮なく吐き出せる店だった。  カラオケボックスのように防音設備が施された小さな部屋で、真奈は、彼である和樹に対する不平不満を思う存分にぶちまけ、すっきりした気持ちで部屋を後にした。 「あの…料金のお支払を…」  ホテルの受付のように蝶ネクタイで正装姿の中年男性に声をかけると、 「既に代金はお支払いいただいております」  まだお金を一銭も払っていなかったので、真奈はその言葉の意味がよくわからなかった。  そんな真奈の心中を察してか、男性は人のよさそうな顔にいっそう笑みを浮かべた。 「お客様のバッグに入っている、細長い機械…その中から既に代金はいただいておりますから」 「え?!」  真奈は一瞬、唖然とし、そして、慌てた。  まさか、バッグの中から勝手にお金を盗ったとでもいうのだろうか?   しかも、細長い機械…スマホのこと…? 「代金とはお金ではありませんよ、お客様」  キツネにつままれたような気分とは、このことだろうか? しかし、不思議と嫌な気持ちはしなかった。     その店で真奈が支払った代金は、真奈がインターネット上で漁り集めた恋愛に関する記事だった。それらの情報だけが真奈のスマホからきれいさっぱり削除されていたのだ。 「恋愛マニュアル・オタク」  和樹に言われた一言が悔しくてこの店に来た真奈だったが、悔しかった理由はその言葉が的中していからにすぎない。  和樹は「オタク」と言ったが、「奴隷」「中毒」と言ってもいいほどだった。和樹と一緒に行くカフェ、ファッションからはじまり、口に出す一言さえマニュアルがないと不安になっていたほどだった。 「真奈が好きなのは俺じゃないだろ? その恋愛のお手本、マニュアルとやらに書いてある物語、それに酔うのが好きなんだろ? 目に見えない情報に振りまわれるのは勝手だけど、俺にまでそんなものを押し付けられても困るだけだ」  そのマニュアルはもうない。 「なんだか…ほっとしたような気がする…」  真奈が思わず呟いた一言に、 「ほっとしましたか? それは良かった。もうお客様にはこのお店は必要ありませんね」  受付の男性は満面の笑みをたたえてそう言うと、「王様の耳はロバの耳」は真奈の目の前であっという間に煙のように消えてしまった。
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