極上の美味

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 老人は一人、吹き荒ぶ突風にその身を揺らしながらビルの屋上を歩いていく。  新調したスーツのジャケットは千切れんばかりにはためき、ハットはとうに夜の闇へ消え、後ろへ撫でつけられた白髪が縦横無尽に蹂躙される。  その身すら吹き飛んでしまいそうな危うさだ。  けれども臆することなく、唯一の持ち物である布包みを抱えて真っ直ぐ、確実に歩んでいく。  飛び降り防止のフェンスまで到達すると、ジャングルのように乱立したビル群が出迎えた。  何千、何万もの人々の営みが作り出す一大パノラマ。夜空の星々にすら勝る、文明が生み出した煌びやかな景観だ。  老人はおもむろに腰を下ろすと、布包みを開く。取り出されたのは古びたワインボトルとグラス、それからソムリエナイフだ。  老人は慎重にソムリエナイフでワインボトルのコルク抜きを始めた。  手慣れた手つきで、されど慎重に、澱を立てぬよう栓を開ける。  そうして風の止んだ一瞬を盗み、ワインをグラスへ注いだ。
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