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月明かりに照らされる真紅の水面。その純然たる色合いはどんな宝石よりも美しい。
しかしワインは未だ閉じたままだ。
老人は時が香りを開くのを一人待った。
やがて、ふっ、と鼻腔を熟れた果実が駆け抜けた。
すかさず老人は携帯電話を取り出すと迷わずコールする。
途端、爆音が鳴り響く。
それは一度や二度ではない。幾度も繰り返される執拗なまでの爆発が大地を揺るがす。
そうして辺り一面のビル群は燃え上がり、最先端の文明が原初の文明に染め上げられていく。
遠巻きにして集まる怨嗟の悲鳴。そのフルコーラスを存分に鼓膜で受け、老人はようやくグラスを傾げた。
「なんたる美味……!」
口腔を満たす香りが鼻腔を抜け、喉を滑り落ちる果実酒の味わいに単純にして明快な感想を漏らす。
多くを語る必要もなく、ただ眼前の景色を肴にグラスを傾げた。
それを四度繰り返した頃、乱雑に屋上の扉が蹴破られる。
甘味に群がる蟻がごとく、わらわらと湧き出た機動隊は老人を取り囲む。
老人は驚くこともなくグラスを飲み干し、笑った。
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