四月二十九日

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四月二十九日

 二十七日の夕方の事、娘の車が駐車場に入る音がして、エンジンが止まると同時ぐらいにEK7のマフラーの音が聞こえた。  EK7シビックは娘の彼氏の車で、その排気音はまるで煩わしい何かから急いで逃げる様に遠ざかって行った。  もちろん、娘からの事前報告も、事後報告も無し、何時もの事だが俺たちに無断であの男は娘を連れ去った。  妻から一回、俺から一回電話をするが留守番電話。  妻からのLINEでやっと渋々電話をして来た娘は平気で友達と居ると嘘を吐く。  マフラーの音を俺が聞き違える筈はなく、何度か問ううちに、娘は折れて男と居る事を白状する。  相手との面識はあるが、それ以外ロジックとしては仙台の事件と同じ。    俺はもう冷静な態度と言葉では俺たちの感情が娘とその男に伝わらない事を確信した。  俺は妻の電話越しに声を荒げ、横に居るであろう男に今すぐここに来る様に催促した。  すると娘から伝わる要求はこうだ。 「声を荒げずに冷静に話す、暴力は振るわない」  その条件を守るなら行くと言う。  俺はもう、呆れてものも言えなかった。  要するに、俺が怖いのだ。  殴られるかもしれないのがただ、怖いのだ。  俺は古いと言われるかもしれないが、そんなチキン野郎を男とは認めない。増して家族、義理の息子にするなどもってのほかだ。  俺はその要求に対して「自信が無い」そう答えた。  娘は一人で帰宅し、男が俺の目の前に現れる事は無く、俺と言葉を交わす事も無く逃げ帰った。  本当に情けない。  殴られるのが怖くて詫びる言葉さえも無く無言で逃げる、そんな奴の何処に娘は惚れているのだろう。  俺が娘に見せて来た背中は、それほど情けない背中だったのか。  そう思うと自分の情けなさに改めて、俺の様な人間が父親にはならなければ良かったのだと染み入る様に思う。  もう何もかもが嫌になる。  車は返してもらう事にした。  欲しければ自分で買えばよい。  娘の車のタイヤの空気を抜きジャッキで持ち上げ走れなくする作業をしながら、せきを切って急速に崩れていく娘に対する想い出、信頼、愛情、そんなものを横目で見ていた。  作業が終わる頃、それらは俺の胸の裡で土石流の様に跡形も無く暴力的なまでの乱暴さで全てを平らげていた。  もう悩むのは止そう。  もう何も言わない。  俺は明日から、街を流れ行く人に対するそれの様に、彼女に興味も心配も共感も持たず、景色の一部として彼女を見よう。  そう決めて睡眠薬を飲み、強制的に思考を終了させた。  
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