桜の館

8/17
38人が本棚に入れています
本棚に追加
/38ページ
 ──我が侭言えないし優しすぎるし聞き分け良すぎるしついでに自虐的なくらい面倒見が良くて割を食う。 「割を食う、かあ」  来しなに言われた信司の言葉が耳に蘇る。  見上げた吹き抜けの天井には切り抜かれた窓があり、僅かに葉を残した木の枝が覗いて、静かに雨に叩かれていた。  ──でもね、シンちゃん。  心の中で、そっと呟く。  ──それでも私にとっては、本望なのよ。  我が侭なんか言えなくても、割を食っても、気持が形にならなくても。  それでもあの男が大切なものを見つけて、人間らしく心を動かして、そうして誰かの幸せを願おうとする。その姿を見ることができて、早苗は嬉しかった。  例えその相手が、自分でなくても。  どこまでも黒い湯に目を落として、早苗は少し、笑ってみた。  黒々と底の見えない湯は告解の湯だ。  形作らず、整えず、一糸纏わぬ素肌の思いがぐずぐずと溶け出していくのに誰にも見えない。  早苗自身からもしっかり隠して、許して、包む。  入り込むはずの無い雨粒がぽたぽたと数滴黒湯に落ちた。小さな波紋を作ったその軌跡は、秒を数える前に儚く消えていった。
/38ページ

最初のコメントを投稿しよう!