第一章

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「え…」 心を読まれたような気がして、それしか声にならなかった。味わうデートをしようと言った彼の意図が、私に向けてではなく彼自身に向けての言葉だったのだと不意に納得してしまう。 「智恵が最初に話してくれた好きな物の話を思い出すために、モネ展に誘ったんだ。僕が智恵を好きだと思ったものを、ひとつひとつ振り返りたくて」 彼が好きな私とは、どんなものだったのだろう。聞いたことはなかった。同じように、私も彼の好きなところなど話したことはなかった。今日改めて思い出すまで、どこに惹かれたのかも忘れかけていた。 「なのに、僕の好きな本を聞いてくれただろう」 不意を付くように、彼が笑顔をこちらに向ける。その表情に、またギュッと胸が締め付けられた。喉の奥でとどまった声は、そのまま出てきてはくれなかった。 「僕にはもう、興味がないんだと思っていたんだ。生活の一部になっているのか、空気になっているのか分からなくて」 聞くたびに、耳を塞ぎたくなるばかりだった。私の心が丸裸にされていくような、ひどく的を射た言葉。私も今日のデートは別れるための準備のつもりだったのかもしれない。その気はなくても、どこかでそう思っていたような気がする。 「だからね、もし良かったらなんだけど、また…本の感想を聞かせてくれないかな」 そうして彼は、切なげに笑った。今日の張り付けた笑みとも、おすすめの本を尋ねたときともちがう、こちらを窺うような瞳で。 「うん。私も、思い出してたんだ。仁くんが好きだなって思ったこと」 絵画や写真の話ばかりをしていた頃に、話についてこられるように必死で芸術について調べてくれたこと。いつも迎えに来てくれる彼を待たせる私に、少しも気にしていないように「今来たところだよ」と笑い掛けてくれたこと。食べ物に興味のない私に、いつも美味しいものを食べさせようとしてくれていたこと。どれも、私を想っての行動だったからこそ、いとおしく想えたこと。 「ねぇ、今日の料理、どれも美味しいね」 そう口にすると、 「それ、答えになってないよ」 と噴き出すように彼が笑った。 幼い頃、義務のように食べていたありふれた夕飯の光景とは似ても似つかないような極上の食卓だった。きっと私はこれから、好物は鮭の塩焼きと肉じゃがだと言うんだろう。それが、今までで一番味わえた食事だったから。
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