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 婆さまがひとつお話をいたしましょう。これは、わたくしが若い娘であった時分のお話でございます。その頃東京では大いに産業が興り、人も街もせわしく変貌する時世でございましたが、わたくしが住んでおりました××という地方では、ぼこぼこと不変の丘と河川とが広がるばかりでございました。その丘陵地の一角にはお金持ちが建てた洋式のお屋敷がまばらに見られ、傍を通りかかる娘たちはその美しい建築にうっとりとため息をついたものでした。 ある年の、連なる丘々に若い芽が吹き始めた春のことです。お屋敷の群れのうち借家に出されていたぼろの一軒に紳士が越していらっしゃいました。長くお勤めになられた東京の銀行を辞し、田舎の屋敷に住まいをお移しになった初老の紳士は妻子を持たず、代わりに一人の少女を連れておりました。紳士は田舎に引き上げる際、ふらりと立ち寄ったカフェーだか料理屋だかで女給を一人買い上げたのです。それがこの少女でした。記憶がどうにも定まりませんが、そのようなことに致しましょう。働き盛りの女給を一見の客などに渡すまいと店が吹っ掛けた掛値も何のその。その日のうちに少女を連れ帰った紳士はその名を野雪と付けました。幼気な少女にはかつておっ父さまが付けた生来の名前がありましたが、変わり者の紳士に「お雪、お雪や」と呼ばれている方がずっと具合が好いと解ったので、そうさせることに決めてしまいました。  その紳士は決して裕福というわけではございませんでした。お食事も粗食を好んでおられましたし、お召し物も特段変わったものを身に着けている風ではありませんでした。しかし、ご自身の生活を切り削る反面で、舶来の瀟洒な細工の施されたオルガンですとか、美しく透き通ったびいどろの切子なんかを好んで蒐集していらっしゃいました。野雪は幼く、紳士の道楽を当初は理解できませんでしたが、そのうちに紳士がおのれに見出した価値がどれほどのものであったかを悟りました。
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