1人が本棚に入れています
本棚に追加
第一話
桜、だろうか。
薄紅色の花びらが雪のように光を編み込みながら舞い降り、艶やかな薄紅の絨毯にとけてゆく。
しかしながら、見渡してみても、瞳には、咲き誇る桜の花の一端さえ映らない―ようにみえたが、見上げてみれば、はるか上空に、ましろな雲の薄衣をまとい、薄紅の綿菓子のように桜花の群がふくふくと咲き誇っていた。岩壁のように見えるのは、恐ろしく太い、幹だ。
その巨大な桜の木の下に、二つの影法師がのびていた。一方の主は、長く燃えるような真紅の髪をした男、もう一方の主は、黒い毛並みをした獣。二人は寄り添って眼を閉じ、ほほをなぜる風をいつくしむかのようにたたずんでいが、その様子がいかにも不自然だったのは、二人の影が、その間に光源があるように、真反対に長くのびていたことだった。その上、深い木陰に在るのに、その影は黒々として馴染まず、真に異質だった。
その時、二人をなぜていた風がひうと身をひるがえし、二人をさらわんばかりにふきすさんだ。
風が去ったあと、男は紅い髪を獣の黒い鬣にからませたまま、静かに眼を開き、遠く一点を見据えた。その気配を感じて、獣は不安気に男を振り仰ぐ。先ほどの風が運んできたのか、桜吹雪があたりを包む。それはさながら春が乱舞しているかのようだった。その最中、獣が口を開いた。それに応えるように頭をわずかに傾けた男は、ふと笑みを浮かべ何事かをつぶやいた。獣はその言に満足し再び眼を閉じる。
桜は尚も、散りつづける。
――或る春の一日のこと。
最初のコメントを投稿しよう!