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あの日。手紙を渡してから、三条は春彦に言って聞かせたのだ。
「冬彦君が怜に近ずいてくる日がきっと来る。その日が来たら、この手紙を彼に渡して欲しい。絶対に、勝手に処分しないと約束してくれないか。これは僕が怜を愛した証だからね。怜の幸せだけが僕の望みなんだよ」
春彦は手紙の事を自分だけの秘密にして母には話さなかった。それでも、実の父の事だけは確認した。
「僕の実の父親は、東印冬彦だと言うのは間違いないの」
真実を求める春彦の為に、怜も正直に全てを話した。
そして冬彦が家を出たあの日の朝、指から外して置いて行った東印の紋章が入った指輪を渡して、涙を浮かべて伝えたのだ。
「この指輪は東印の家に伝わる品で、当主の指輪です。男の子が生まれたら、春彦と名付けてこの指輪を渡せと、冬彦さんが私に託しました」
「女主人の指輪は、東京での偽装工作に使ってしまったの。御免なさいね」
涙を滲ませながら、怜が春彦の指に指輪を嵌めた。
その指輪の重さが、母を置いて。全てを捨てて身を隠さねばならなかった、まだ若かった冬彦の苦しみを語っていると、ずっと後からだが春彦は思ったものだ。
その後の春彦は、三条の望み通りに彼の母校の大学に進学した。
でも日本は狭いと思っていた春彦は、どうしても広い世界が見たいと思った。我慢出来なくなった彼は、遂に母に留学の事を相談したのだ。
怜は、いかにも冬彦の息子らしいと思い、それを黙って許した。
三条もきっとこの為に会社を作り、お金を意したのだと思ったから、黙って許したのだ。
一人で残されて寂しかったが、でも何も言わなかった。やがて春彦はアメリカに留学し、怜はとうとう一人になったのである。覚悟はして居ても、やはり寂しかった。
牧場と東京を行ったり来たりして過ごす寂しい暮らしの中で、ただ春彦の帰りを待って三条不動産を守っていた。怜はまだ春彦が幼くて、牧場での三人の暮らしが懐かしくてたまらなかったのだ。
一年後の夏、二十歳の春彦がアメリカから久しぶりに帰省した。
成長した息子に息を呑む。
「なんて、冬彦さんに似て来たのだろう」、あと一年で、怜が嫁いだ日の冬彦と同じ歳になる春彦。冬彦によく似た彼の姿が、心に苦しかった。
「お帰りなさい、春彦」
笑顔を作る前に見せた哀愁。母がどこか遠い眼になって、涙するのを見た。
「只今、母さん」、何気ない声を作る。
「また牧場へ行こうよ。昔みたいに馬に乗って朝霧の高原を楽しみたいな」
何とか笑顔をつくる母。
春彦が望むから、牧場に出かけて行ったのはそれから暫くしての事だった。
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