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「いいんです。わかってますから」
俺は固まった。
やはり、これが初めてではないのか。
彼はすべてをわかっていて、諦めているのか。
「帰ります」
利がサイドデーブルにカップを置き、掛け布団を剥いだ。
「あ、おい」
これほど衰弱しているのだ。歩くのも困難だろう。立ち上がろうとする肩を慌てて押さえた瞬間、その身体がびくりと強張った。
部屋が重い空気に満たされる。頬が引きつるのを感じながら、俺は手を離した。
「悪い……」
こんなことでも怯えるようになってしまった彼の身体は、いったい何をされたのか。嫌な想像が頭を過ぎる。胸の痣。腿に流れる血痕。どれだけの間、彼は暴行に耐えてきたのか。誰も助けてくれる人はいなかったのか。
悲鳴を上げる彼が見える。うずくまって何かに耐える姿が見える。
直感する。これは、ドラッグではない。暴力だ。彼を変えてしまったのは、痛みや恐怖、苦しみだ。
俺は緩く息を吐き出して、平然を装った。
「まだ歩けないだろ」
すると利は、目も向けずに静かに言った。
「大丈夫です。ご迷惑掛けて、すみませんでした」
――これ以上、立ち入らないでくれ。
冷めた眸が、そう言っていた。
もし暴力を振るう人間が一緒にいたあの男、――思い出した。おそらく彼のバンドのリーダーだった――であるならば、このまま帰してもきっとすぐにまた同じ目に遭うだろう。彼はそれをわかっていないとでもいうのか。いや、違う。諦念に満ちたその顔を見ればわかる。彼はわかっていて、すべてを諦めているのだ。
以前から暴行を受けていたと考えると、辛い話だが助ける仲間はいそうもない。ましてやこの顔が、これから警察に訴えにゆくとは思えない。
俺には彼を強制的に留める権利も筋合いもない。だが明らかな犯罪を見過ごす立場になるわけにもいかない。しかし今力ずくで引き留めるのは、得策ではない気がする。彼を怯えさせてしまうかもしれない。
どうしようか。
思案にため息を漏らしている間に、利がベッドから脚を下ろした。
「おい、待――」
インターフォンが鳴った。
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