桜舞恋歌

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 満開の桜が舞い散る吉野の山を、私は一人歩いていた。この山の桜は、圧倒的な存在感で人間に迫ってくる。私が桜を見ているのではない。桜が私を見ているのだ。  踏み固められた道を歩いて行く。特に行き先が定まっていた訳ではない。言うなら、桜に誘われ、桜に導かれて、といった所か。  山から吹き降ろしてくる風に桜の花びらが舞う。その風に、微かすかに琵琶の音色が混じる。  嫋々と。そしてまた嫋々と。  その琵琶に誘われて歩みを進める。  一人の老婆が琵琶を抱え、桜の根元に座している。何処を見ているのか判らぬ瞳に映るのは、現世うつつの桜か、幽世かくりよの華か? 「旅のお方かえ?ここから先は鬼が出る。お止めなされ」  琵琶を弾く手を止め、老婆が私の方へ顔を向けた。その目には、果たして私が映っているのか。 「旅という程の事もない。ただ桜に誘われ、桜に魅入られての一人歩き」  歩みを止めた私の目には、老婆がわずかに笑んだような気がした。穏やかな表情は気品に満ちている。琵琶の腕前から考えても、それなりの家柄の出なのだろう。 「急ぎの道行きでないのであれば、しばし、この婆の昔語りに付きおうては下さらんか?ここで待ち合わせる約定。なれど、少しばかり早かったようじゃ」  私も先を急いでいる身ではない。それに、この不思議な老婆に興味を惹かれていた。 「私でよければ、お付き合いいたしましょう」  桜の花びらの敷き詰められた吉野の山中。異界に迷い込んだか、妖あやかしの術にでもはまったか。それでも良いか。そう私は思ったのだ。 「旅のお方。お主様はご存知でございましょうか?この吉野の山には“鬼”が出るという──そう、今から五十年ほども昔の事でございます……」
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