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 誰かを殺したいなんてみんな思っていることだろう。僕はナイフを見つめながらそう思っていた。ただ、それは倫理という言葉の内側に押し込められ、人間の無意識のずっと奥底に眠ってしまう。だから、いざ殺意に震えても本当に実行されることは滅多にない。 「いや、不思議なものでさ。人と違う生き方をしていると常識というものがわからなくなってくるんだよ」  南米で無接触部族の研究を密かに行っていた叔父はそう言っていた。  叔父は仲間数人と三十代半ばで会社を辞めて、部族研究をするために世界中を飛び回ったという。叔父たちの研究はとても険しいものだったらしい。生活は自給自足で部族たちと似た生活リズムを送っていたそうだ。  そんな叔父がたまたま日本に帰ってくる機会があった。僕は叔父との会話を楽 しみにしていた。どこかで切り取って貼ったような言葉の羅列ではなく内側から生成された言霊を感じられるからだ。 「元気にしていたか」  叔父は僕の頭を無造作に撫でる。  今年で、僕も中学生になるというのにどこか叔父の中では子どもの僕がいるらしい。  叔父の腕からほのかに獣の匂いがした。 「秀太は殺したいほど憎んだことってあるかい?」  叔父の質問はいつも唐突で、突拍子もないものだ。 「ないよ。友達とはうまくやっているもん」  叔父の瞳はいつも生に向かって真っ直ぐ伸びていたが、今日はどこか弱々しものだった。まるで生きることが嫌にでもなったみたいに荒んでいた。 「はいこれ。お守りみたいなものだから、ずっと持っていなさい」  そう言って、叔父はサバイバルナイフをこちらに差し出してきた。いくら僕でも、このナイフを合法的に持ち歩くなんて無理だとわかっている。でも、叔父がこれをくれる理由はどこかにあるはずだ。  叔父からナイフを受け取り、そっと自分のカバンの中に入れる。 「人はね、もっと本能的に生きても良いと思うんだよ。今は何か縛りのようなもので雁字搦めになっている。人はなんで人を殺さないんだと思う?」  僕は首を傾げた。 「それはね。殺意があるときに凶器がないからだよ。いざ、というときに武器がない。要するに我々は平和ぼけしているんだよ。バカみたいにね」  叔父はそう言って、馬鹿にしたように嘲笑った。
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