第二章  朱雀夏彦

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 「原稿が溜まってるんだ。早くワープロ打ちしてくれ」言うなり汚い文字で埋まった原稿の、恐ろしく大きな束を指差した。(ワープロって・・いつの時代だ?)  それはテーブルの上に無造作に置かれていて、隅の方にはコーヒーの染みまで付いていた。ついでに、なぜかマヨネーズの染みもあった。  襷掛けで取り組む事、七時間半あまり。  精も根も尽き果てて、テーブルに突っ伏した。  あまりの量に、終わらない。それを見て、夏彦が言った。  「客用寝室を貸してやる。明日から泊りがけで働け。安心しろ。俺は胸の小さい年増は嫌いだ」  こっちこそお断りだと、心の中で舌を出してやった。  夕暮れの中を駅に向かって歩いた。この辺りはもう豪邸ばかり、突き当りの邸宅なんて門以外は樹木しか見えない。築地に囲まれた和風の豪邸は、邸の屋根さえ道路からは見えない。  当然だが、表札も無い。  侘しい気分だった。  あまりにも住む世界が違い過ぎて、嫉妬心も起こらない。  溜息を吐きながら駅に向かってひたすら歩いて、駅でタクシーに乗った。  もうこれ以上動けなかった。 仕事の目途が早く付いた日の事、何時もよりも早めに邸に帰って来た晴臣が、夕暮れの中を疲れた顔で歩いている姿を見かけた女がいる。  女が夏彦の邸から出て来るのを、何と無く見ていた。  夏彦に似つかわしく無い素人っぽい女だと思って、車とすれ違う時に何気に顔を見て驚いた。  「桜子が何故こんな所に」と、思った。  夏彦の事は知っている。幼い頃から一緒の幼稚舎に通った仲だ。女遊びも、性癖も知っている。  そして桜子の身体もよく知っているから、心配になった。  手の平に包むと弾力があって、手の平の中に収まらない程に豊かな胸。  実のところ、桜子の豊かな胸が晴臣は好ましい。  抱き寄せて細い腰に腕を廻し、しっかりしたヒップラインを優しく撫でてやると、いつも胸に身を寄せて抱きついてくる。  豊かな胸が晴臣の胸に押し付けられて、見事な谷間を作る。  とても四十六歳には見えない美しい身体をしている。  「まさか夏彦が」、と思うと熱い苦しみが胸に広がって。自分の嫉妬心に驚いてしまう。  気になって眠れなかった。
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