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昭弘が帰ってこない。
午後八時半。
事務所にも、アパートにも、彼の姿はなく、スマートフォンも通じない。
嫌な予感に、汗が噴き出す。
義侠屋へ行ったあとから、昭弘は様子がおかしかった。
まるで、蛍を避けているようで。
軽はずみだったことは反省している。
でも、昭弘を責めようとしたんじゃない。
僅かな望みにかけ、三田や吉村に電話をしたが、二人のもとにはいなかった。
問いただそうとしてくる彼らの気持ちを、荒立たせないように注意しながら、もし、昭弘が来たなら連絡をくれるよう頼んだ。
テーブルに昭弘へメモを残し、コートに腕を通す。
携帯が鳴り、飛びついた。
父からだった。
「浩平から話は聴いた。大丈夫か?」
「……うん」
微笑む唇とは裏腹に、携帯を持つ手がカタカタと揺れていた。
「前とは違う。あの人が姿をくらます理由はない。帰ってくるさ」
「うん……」
「蛍」
「うん?」
「学生の頃、あの人とよく大学の図書館やラウンジで勉強をした。あの人は、本当は購入してある六法を持っていないって言ってな。浩平に怒られていた。付箋や、赤ペンだらけの六法を見られたくなかったんだろうな。入学して間もないのに、手垢のついた六法なんて持っていたら、いかにも勉強を頑張ってますって感じだものな」
「うん」
どうして、父は昔の話をするのだろう。
「浩平達の前では開かないそれを、俺の前では使っていて、特別扱いされているようで、嬉しかった。大切な思い出だよ。お前にはないか?」
「昭弘との思い出?」
親子として過ごした幼少期。
反抗して傷つけてきた青年期。
「俺は」
思い出はたくさんある。
だけど、そのほとんどは、このアパートで起こったことだ。
そして、明るい過去を探す方が難しい。
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