第1章

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「すいません。となり、いいですか?」  買ったばかりの電子辞書をいじっていると、声変わりはじめのような掠れた声が不意に背後からかかった。豊田は無言で一呼吸おき、振り向くことなく脇の椅子に置いていたショルダーバッグを足元に移した。舌打ちしたい気持ちを堪える。  教室の最も後ろの席で、しかも窓際の机だった。直接授業のときはいつも睡魔に襲われるので、授業開始一時間前には地元の生涯教育大学の学習センターへ着くようにし、居眠りが目立たない場所を確保するようにしている。したがってとなりに人が座るのは気疎い。  机に小ぶりのリュックを置き、静かに椅子を引いて腰かけたその若い人物を横目で見た。細身にジーンズをはいていて、グレーのパーカーを着こんでいる。視線を徐々に上げていって顔を見たとき、豊田は思わず二度見した。てっきり若い男だと思っていたが、どうやら女のようだ。  ショートヘアではあるが色白で、まつ毛が長く整った顔立ちだった。歳はまだ二十歳前に見える。今教室に来ている学生の中では最も若く見える。  生涯教育大学は、国設の通信制大学なので幅広い年代の学生がいるが、年齢層としては中高年の割合が多い。子育が終わった主婦や、会社を定年退職したシニアが自己啓発のために集まっているケースが目立つ。  国がバックアップしているだけあって講師陣は国立大の教授など贅沢とも言える顔ぶれだ。授業料も安いが、卒業しても全日制の大学ほどネームバリューもないので、若者の数は少ない。  もっとも、通常はテレビやインターネットの放送を見ながら自宅で学習するので、学生生活を謳歌するキャンパスライフとは無縁に近い。だが、必修科目として、こうやって学習センターでの直接授業が二十単位必要となっているので、そのときだけは他の学生と顔を合わす場となるのだった。  豊田は電子辞書を置いて教室を見回した。ほぼ席は埋まっており、前方の壁掛け時計は授業開始三分前の九時五十七分を指している。  その日の授業は共通科目コースの『グループアプローチ』だった。シバラスにはサイコドラマを通じて、個人における心理的葛藤の整理や解決を図るとある。  要するに、問題を抱えている人間を描いたドラマを見て、皆でどう解決していくか考えるといったことなのだろうと、豊田は考えていた。
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