ムラサキの谷

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 浮遊しているわたしという存在に前も後ろもないのなら上も下もないわけで、ではひたすら歩みを進めているこの足は一体何処へと向かっているのだろう。  力を入れ踏み込んだ右足は沈んでいき、やがて角度がついて身体ごと一回転した。くるり。あたりを覆っている白い靄がわたしの全身によりかき混ぜられる。無重力状態で雲の中を歩いているみたいだ。ふわり。滞留しているその白さはわたしの作った空気の流れに沿って動く。次第にこの白い靄に対して、自分の飼い犬かのような愛おしさがこみ上げてくる。そう思わせる何か、意思とか鼓動とかを感じるほどに白い靄は生きて、存在していた。  何にも執着しないでここまで来たら、いつになっても手ぶらのままだった。荷物などは何一つ持たず、着の身着のまま歩き続ける。唯一、持ち物と呼べるだろうもの。それはそう、記憶。過去を持っているわたしは未来へと進むはずなのに、どうしても今という世界が見つからない。今はすぐに過去に姿を変えてしまい、いつまで経っても掴むことが出来ない。例えば、何か言葉を発すればそれはすぐ後方に流れていってしまう。となると、確固たる今という時間は一体どの瞬間のことを指すのだろうか。 「そんなもの、見つけようとするから、見つからないのよ」  声のする方に顔を向けると、一匹の蝶が忙しなく翅を動かしている。ヘリコプターがホバリングしているかのごとく、蝶はわたしの右肩上でその位置を守っている。ハチドリは確か同じ場所で飛び続けることが出来たはずだが、蝶はどうだったか。一箇所に留まろうとする意思は感じられるが、現実には大体同じくらいのエリア内でふらつくように飛んでいる。紫の翅は思っていたより分厚く、その分力強く空を切っていた。ひらひらというよりはふらふらとしたその飛び方からは、何か暗号めいた意志が感じられそうで目が離せない。
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