夏が近くなったら、よんで下さい。

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夏が近くなったら、よんで下さい。

 晴れた。  今朝空を覆っていた、色の悪い筋肉のようだった雨雲が、まるで嘘のように。  すっかり雨を搾り尽くして綿菓子状になった雲が、今はのったりと長く大きく浮かんでいるだけだった。  雲の千切れたところから、青空が見えた。  それから、太陽が雲に反射しているのも見えた。  長い梅雨の合間に見た、太陽の印。  今日は一日晴れかもしれない。  閉鎖的になりがちな気分がそれだけで軽くなるのを、彼はバスの中でこっそり感じていた。  もう夏は近い。  呪文のように、その言葉が頭の中を反芻した。  胸が高鳴る。  自分の心臓の位置が的確にわかるくらい高鳴った。  呪文は彼の奥深くまで染み込んで、唱えるたびに体に力がみなぎった。  夏は、彼の一番好きな季節だからである。  彼が生まれたのが夏だからということもあるのかもしれないが、ハイテンションが持続する開放感はなんとも言われず好きなのである。  海も、山も、川も、街も、全てが自分を歓迎してくれているような気になる。  激しいけれど眩しい日差しが、いつも自分を包み込んでくれる。  夜になれば満点の星空が、自分を癒してくれる。  映画館で学生証を提示するのも億劫がる七面倒臭がりの彼が昼も夜も外に出ていたいと思うのは、夏だけなのだ。  夏に思いを馳せトリップしていた意識が、何の前触れもなくバスの中に帰ってきた。  バスの中では、ラジオがかかっていた。  リクエスト制の音楽番組。  この時間に、ほとんど毎日放送している番組だった。  DJの陽気な提供読みのバックで、どこかで聞いた、懐かしい曲。  ただ、この季節に聞いたものではない。  もっと寂しくて、それでもどこか温かかった季節に聞いたものだ。  今とは遠い季節に馳せる、懐かしさこみ上げてきた。
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