一、初春

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一、初春

(あらた)にとって雪子は、氷を融かしてゆく初春(はつはる)の河であった。 雪子はなにも聞かない。具体的なことは何にも知らないに違いなかった。知ったところで何になろう、知った数で知り合いにはなれようが馴れ合いはしないのだと、そう思うことが、新を雪子と繋いでいた。そしてそれは、いま時分には奇跡のようにも思えるのである。 「お帰りなさい。寒うございましたね」 帰ったなりの玄関へ雪子は、新に縋るような目をして来る。 「新さん、今度はなに見つけて来はりましたん」 「映画館の広告だよ」 「こんな寒いのに、遠出しはりますの。雪が降ったら帰ってこられますんか」 新が座敷につくと同時に投げ出した鞄も一緒に抱いて、雪子は広告を覗き込む。色の白い額が、新の目の前に美しい。遠い波を聞くように、雪子という静寂に新は己の胸のうちの心音を聞く。 「また難しいの見はるんでしょ」 「簡単なのにしようか」 「私も連れて行ってくれはりますの」 雪子は悪戯そうに笑って、炊事場へ立った。新の帰ってくる頃合を計ってかけた、火があったのだった。そうして雪子は茶を淹れてきた。温かい湯気があたると、冷えた頬はまるで眼鏡のレンズのように曇るかと思えた。     
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