朝の会釈

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朝の会釈

 通勤途中の道で、毎朝、庭いじりをしている奥さんと顔を合わせる。  通りすがりなのでお互い名前など知らないが、毎朝同じ時間にそこにいるのでどうしても視界に入り、最近は軽く会釈をし合う仲になった。  今日もそれとなく目が合って、ぺこりと頭を下げ合った。そして何事もなく出社し、珍しく日のあるうちに会社を出られた帰り道、私はありえない事実を知った。  奥さんとはいつも低い塀越しに会釈をし合うのだが、会社に向かう時は色んな条件が重なって、庭の中までははっきりと見えなかった。でも帰り道からはばっちりその家の庭を見ることができた。  いつもは暗くて気づかなかったけれど、塀の向こうは池だった。庭に作られた池だからそこまで深くはないだろうけれど、踏み込めば膝以上の深さはありそうだ。  そんなところに毎朝人が立っているなんて尋常じゃない。でも、何か理由と方法があって池に入り込んでいるのかもしれないし…。  明日の通勤時、思いきってあの奥さんに声をかけてみよう。庭の池で毎朝何をしているのか尋ねてみよう。  そう思って帰宅し、翌朝、私は少しだけ時間に余裕を持って家を出た。  いつもの家が視界に入る。壁の向こうの奥さんが私に気づく。  軽い会釈にいつもは会釈を返すだけだけれど、今日は昨日の疑問を口にしてみた。 「あの、そこって池ですよね? 毎朝池で何をしてらっしゃるんですか?」  私の質問に、奥さんはしばしぽかんとこちらを見ていた。それから少し考え込むような顔を見せて、ゆっくりと口を開いた。 「何も。何もしてないわ。ただ、ここで死んじゃったからここから離れられないだけ」  その言葉を残して奥さんの姿は視界から消え失せた。  その後、私はどうやって家に帰ったのか覚えていない。  翌日、無断欠勤だと叱られたから、会社に行かなかったことは判ったけれど、この一件以降の記憶が一日分程ないからだ。  後でその家の近所の人に聞いた話では、数年前に庭の池で奥さんが事故死して以来、家は空き家のままだという。  何も知らず、私は毎朝亡くなった人と会釈を交わしていたのか。  害があった訳でもそこまで怖い思いをした訳でもないけれど、明日からは通勤路を変えようと思っている。 朝の会釈…完
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