そらごと申す大納言

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 夏の大井川での出来事である。橋の上を一台の牛車がゆっくりと進んでいた。それを下賎の者たちが、橋のたもとに群がって好奇の目で見送っている。  何故なら車の物見の窓から、一人の姫君が顔を出していたからである。李のようなうぶ毛が頬に生えた、まだあどけない年頃の姫君である。高貴の人であればまず滅多なことでは人前に顔を曝さない時代のことであるから、当然、供回りの者たちもその様子に眉をひそめている。しかし姫君のほうにはそれを気に止める様子もない。  姫君は夏の空気を胸一杯に吸い込みながら、大きく伸びをした。嵯峨野【さがの】の風は、都のそれに比べて少しばかり涼しい。日は頂点にあった。 「いけません、日に焼けます」  姫君の側に控えていた女童【めのわらわ】は、そう言って物見の窓を閉めようとするが、姫君はその白い手を掌で叩いた。女童は頬を膨らませて床の隅に座り込む。  姫君は構わず後簾【のちのすだれ】を上げると、車から身を乗り出した。  川辺には鮎を求める釣り人たちの姿が多くあった。岩場には白鷺が群れている。そのあいだを川風がゆっくりと通り過ぎた。水面はまるで白玉が跳ねるように輝いている。にわかに網を激しく手繰った釣り人があった。水しぶきがあがるや、白い川辺に黒い鮎の体が跳ねた。  それを見た姫君が歓声をあげると、女童が乱暴に簾を下ろした。 「日に焼けたお顔で前大納言【さきのだいなごん】にお目にかかるわけにはまいりません」女童は憮然とした表情で言う、「祖父上に初めて会うのですよ」  しかし、姫君は再び扇で簾を差し上げた。嵯峨野の空は広い。小倉山のほうから雲の峰が湧いている。そこに、一羽の燕【つばくらめ】が、弧を描きながら、高く高く上がっていく。 「あの燕には親がいるのかしら?」  姫君は呟くようにそう言った。燕はどこまでも高く上っていく。  
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