第1章 春祭りの木霊

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 雑木林に緑のツル草が芽吹き、四月ともなると山肌に春の息吹が感じられるようになった。山桜が群生している一角はそこだけピンク色に霞んでいる。  裏山の細い小路を桜の樹に向かって歩きながら、私は思わず嬉しい吐息を洩らした。  思えば、すべては青山墓地へ花見に立ち寄った昨年の春に始まったのだ。あそこで増田家の墓を見かけたことが、私、黒田瑠璃子の人生を大きく変えた。いや、運命に導かれて墓を発見した、ということに違いない。  そして宮城に移り住んだ春、大学の図書館で初めて彼を見かけ、ちょうど今頃、この裏山でまさに山桜を愛でていた時に、雑木林の間にたたずんでいた彼に出逢った。  真っ直ぐな眼差しを私に注いでいた美しい男、山下隼人。図書館で見かけて以来、ずっと私の心を捉えて放さない、大事な人。  回想をさえぎるかに樹々の枝が騒がしく揺れる音がして、見上げると隼人が雑木林の間をジャンプするような身軽さでこちらに向かって駆け下りて来るところだった。 「普通の人間らしく、ちゃんと山道を歩いたら?」  思わず見惚れていた照れ臭さも手伝って憎まれ口を叩きながら、隼人に逢えた嬉しさに私は頬を赤らめた。  もう何時間も何日も一緒に過ごしているけれど、彼の端正な顔に見つめられるたびに、初めて出逢った時と同じように私の胸がはやる。そしてこの魅惑的な男が婚約者であるという事実が、奇跡のごとき幸運に思えてくるのだ。 「君と一緒に山道を歩こうと思って、急いで駆けつけたんだ」  そう言うと、隼人は私の額に軽く挨拶のキスをしてくれた。  手を取られて並んで山道を進みながら、私は早速詮索をはじめる。 「それで、金剛山では、何か見つかったの?」 「いや、新たな亀裂とか、そういう現象は何も見当たらなかった」  隼人が金剛山に向かったのは先週のことだ。  四月初めに宮古沖を震源地とする地震があり、東北一体が再び揺れた。宮城など陸上での震度は4ほどで軽微だったが、夜のイカ釣りに出かけた船が沖合で行方不明になり、金剛山で登山者が失踪する事件がその後発生した。  地方紙にしか載らないありふれた事件だとしても、遭難船や遭難者が見つからない神隠しが相次いで起きたことに神主は眉をひそめ、念のため金剛山の封印を確認して来るよう隼人に要請したのだった。
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