紙本屋

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「チッ。これだって警棒でドスンといかれてなけりゃもうちっとはマシだったんだ。知ってたか?俺の元の声は、青物町の平井堅とまで言われてたんだぜ」 思わず噴き出した館長の笑いが、電波塔で覆われた空にむなしく響いた。 「でもよ、あんたも笑ってる場合じゃないぜ、館長。いつまでもこんなとこいられないだろ」  急に真面目な顔をして話し出した人工声帯男の眼には、ある種の男ならではな炎が灯っていた。その炎は、館長からしてみれば見慣れた色で、かつて死んでいった仲間達が皆抱いていたものだった。 「なんだぁ?お前さん、この国脱ける気か」 「紙本なんてもん捨てられずにこんなことやってるあんたなら、新政府軍が書き換える前の地図、持ってんだろ、頼むよ!」  昔とはケタ違いの暖冬にかかされた汗はどこかに飛んでいき、額には別の汗が滲んでいた。 「駄目に決まってんだろうが。俺に犯罪の片棒担がせるってのか!」  野獣の咆哮にも似た怒号が響き渡り、遥か遠くに見える大通りを歩く観光客の足が、少し速くなった。大きな声に反応したのか、巡回型のドローンカメラが二人の上空に静止して監視を始めた。 「そうか。駄目か。そうだよな。なんかすまんかったな、巻き込んで。…ここで吸った煙草は美味かったよ」  怒鳴られた男は、怒られたせいか、はたまたドローンカメラが来たせいか、一気にその背中を狭くして、秋葉原のさらに奥へ消えていこうとした。  その背後で、何かが落ちる音が聞こえて男が振り返ると、音の発生源は、さっきまで男が愛でていた18禁雑誌だった。 「それ、やるよ。餞別だ。吉原にでも行って自慢するんだな。特に屋形船の連中はそういうの喜ぶぞ」  いつも間にか煙草を咥えていた館長が、ドローンカメラを眺めながらそうつぶやいた。  男は人工声帯をぶるぶると震えさせて笑った。館長の冗談にしては気が利いている。 「何言ってんだ館長、吉原にゃ屋形船なんてもう…」 「いいから持ってけ。…いい夢見ろよ」  そう笑い飛ばそうとした男をさえぎるように館長は言葉を吐き捨てると、一気に吸いきった煙草を入念に踵ですり潰し、また店内に消えていった。  剣幕に押されて団蜜を拾い上げ、一路吉原へ駆けた彼が、その後密航船での亡命を成功させたことに、まさか一介の本屋が関係などしていまい。
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