9人が本棚に入れています
本棚に追加
/168ページ
「ありがとうございました」
彼女に会計をしてもらい、店を出る。
「すみません、見送ってもらって」
「いえ」
最後に、彼女の個人的な携帯番号を聞いて、登録する。
当時はまだ、こうして携帯の番号を交換するだなんて、想像もできなかった。
あと、まさか教えてもらえるとは想わなかったので、嬉しさを隠すのにも必死だった。
「あまり出れないかもしれませんけれど」
「こちらこそ、無理を言ってすみません」
想ったより、長い時間いたみたい。
空を見ると、紅い色が広がり始めていた。
忙(せわ)しない私の背中に、彼女は、静かに言った。
「……お幸せに」
染み込むような、彼女の声。
私は、伝わるようにゆっくりと、その言葉に答える。
「はい。ずっと、あなたのおかげで……幸せです」
――彼女は、学(まなぶ)だった夫と、どんな話をするのだろう。
でも私は、あえて、知ろうとは想わない。
それは、わたしが出会った憧れの人と……違う女性の、横顔だから。
「……また会う時は、違う場所で」
そう、別れ際に呟いて。
母として過ごす家へ、車を走らせる。
そして、車中で看板を見送りながら、自分の陰が薄れていくのを感じた。
――私は、前へ向かって、走り出す。
淡い少女時代の想いへ、別れを告げながら。
最初のコメントを投稿しよう!