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あの日私は、人魚になった。
むせ返るほど暑かったあの夏、私は初めて隣町に住む祖母の家に行った。生まれてすぐの頃はよく行っていたらしいけれど、そんな時の記憶は私には無かった。
私の町と祖母の住む町はそんなに離れていないのに、世界はまるで違っていた。そこは緑が多くて、灰色が少なくて、お世辞にも便利な場所だとは言えなかったけれど、でもとても鮮やかな世界だった。
そして何より、その町には海があった。水面は休むことなく揺らぎ続け、太陽の光を一つ残らず反射していく。そんな眩しい海をよく眺めていた。
そしてあの日も、いつもと同じように私はひとりで近くの防波堤まで海を見に行っていた。
キラキラと光る波は見つめるほどに不思議で、私は手を伸ばして指先をそれに浸して遊んでいた。かき混ぜて、泡を立てて、空気に雫を投げて。
そしてそんな風にしているうちに、私はとうとう暑さに背中を押されるようにしてその海に飛び込んだ。
潮の香りが私を包んで、冷たい水が全身を撫でる。海と一つになったような気分だった。
あの子が現れたのは、そんな時だった。
「…誰かいるの?」
私はとっさに水の中へ隠れた。でもそんなのは長くは続かない。
結局すぐに空気を求めて、水面に顔を出す。すると目の前に、知らない男の子が居た。
「え…?」
私の顔を見て、本当に驚いた顔をしていた。でも私も同じくらい驚いていた。
「キミは誰?」
あの子の声は澄んでいてとても綺麗だった。
どうすればいいんだろう、なんて言えばいいんだろう、私の思考は絡まってなかなか答えが出せなくて、先に口を開いたのはあの子だった。
「もしかして…人魚?」
あの時の輝いたあの子の瞳を、私は一生忘れないと思う。
あの子の夢を叶えてあげたくなった。純粋で綺麗な夢を守ってあげたくなった。
だから。
「うん、そう」
私はそう答えた。
きっといつか、あの子は私の嘘に気付いてしまう。でも、それでも良かった。少しでも長く、その瞳に夢を宿していて欲しかった。
「すごいや」
あの子は本当に嬉しそうだった。
「ねえ、名前はなんて言うんだい?」
こうして私は人魚になった。
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