第1章

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 登校中、ボクは必ず足を止める。  県道から防波堤を見下ろして、名前さえ知らない彼の姿を確認する。一カ月ほど前の登校中に彼の姿を見かけてからというもの、これが日課となっている。  切りあぐねているらしい色素の薄い彼の髪と、まっさらなTシャツが潮風になびいた。  僅かに遅れて、ボクのネクタイと前髪も強い潮風に躍った。カッターシャツの裾も揺れる。  彼の色褪せたブルージーンズは、海岸に打ち寄せる波の色に似ていた。瞬きしている間に、彼という存在が海へと溶けて消えていく気がした。  ボクは目を細めて大空を見上げた。入道雲へと発展しそうな大きな雲が、薄い青空の海をゆっくりと泳いでいく。  今日も暑くなりそうだ。  腕時計を見やる。  ヤバイな。普通に歩いていたら遅刻する。 「よしっ」  ボクはもう一度彼を見下ろしてから、鞄を小脇に抱えて駆けだした。  新しい日課が増えてからというもの、ボクは担任に注意されるほどの遅刻常習犯となっていた。  彼は謎だらけの少年だ。  歳は、多分ボクと同じ一六ぐらい。  学校に通っている様子はない。登校拒否中なのか、中卒か。  彼は毎朝あの場所に立ち、海を眺めている。  帰宅中は彼の姿を見ない。  彼は平均よりも細くてしなやかな容姿だが、目を奪われるほど端麗ではない。  ただ、彼には言い様もない危うさがあった。風景と同化しそうなほどの希薄さに、声をかけたくなる。そうして、彼が実在していることを確かめたくなる。でも、彼が幻かどうか確かめる勇気がなくて眺め続けてしまう。  ボクにとって、彼は白昼夢に似た存在だ。彼がいるだけで、当たり前の景色が違和感のある世界になるのだから。  この感じは、伝えたら今の関係が失せてしまうとわかっている初恋に似ている。授業中、『初恋』の詩の朗読を聞きながら、そんなことを考え、ボクはこっそり笑ってしまった。 「香澄、そろそろ店を開けるわよ。ちょっと、聞こえてるの?」  日曜の朝。テレビを観ていたボクの耳を、母さんが容赦なく引っ張った。 「痛いっ、痛痛痛っ! わかってるよ」  ボクは溜め息を堪えて立ち上がった。  ボクには小遣いがない。その代わり、母さんが営む花屋から『手伝い代』を頂いている。  商社マンの父さんは、休みになると花屋の配達を手伝わされる。休みがゴルフで潰れるとき、父さんは心底嬉しそうな顔で母さんに謝る。
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