(一)

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 肩に指が触れた。はっと私は顔を上げた。跪いていた彼が、体温を感じそうなほどにすぐ近くにいた。 「王よ」  もどかしげに私を呼んだ。私は彼の眸の中に、溺れそうな、月を見る。 「今宵を夢見ておりました。最初に、あなたに触れることが出来る私の喜び、あなたにはきっと分かりますまい」 「ハクビ」  彼の名を呼んだ。洞窟に籠もってから三月、言葉を発したのは初めてだ。声が喉の奥に引っ掛かる。ハクビは顔を輝かせた。 「王」  私は名を失った。それが王に選ばれた私の、宿命。  ハクビの唇が柔らかく首筋に触れた。未知の感触に、私は身を強ばらせた。が、抵抗する間もなく、地面の上にうずたかく敷きのべられた青草の褥に押し倒される。草の鋭い感触が唇をちくちくと弄った。  身体に巻かれている薄布を、ほとんど破るような荒っぽさでハクビが取り去る。現れた背骨を舌で辿られた。  誰にも会わず、会話も交わさず、透明な存在になりかけていた私の身体に、その感触は暴力的なほどに染み入った。消えかけていた、私という理性が戻ってくる。反射的にハクビの身体を撥ね退けるが、すぐに腰を両脇から抱えられ、引き戻された。とっさに草を掴む。けれどずるりと、敷かれた草が一掴み抜けただけだった。 「王」  首筋にささやかれた。温度の違う自分の呼び名に、戸惑う。 「夢見ていました、この瞬間を、あなたを、こうして──」  それ以上は言葉にならないようだった。急く手つきで、ハクビが私の腰布に触れる。すでにその真紅の薄布しか纏っていない私は、思わず叫んだ。 「待てっ」  ハクビの指先が止まる。 「待て」  自分の息も熱い。肩が微妙に波打っていた。  二人は、まだ主従の関係をギリギリに保っていた。が、体温はすでに違う。畏れが急激に溢れ返る。胸の鼓動が全身を波打たせた。 「待て。少し、待て──」 「王」 「少しだ。少しの間でいい。頼む」  畏れていることを知られたくない。そう思いながらも、いつの間にか身体の下にある青草をきつく掴んでいた。ハクビの指が退いた。重みがわずかに遠のく。  私たちの頭上には、青い焔を湛えた月が在る。無言の二人を、照らし出す。
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