優しい邪竜の育て方

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「う……むぐ……っ」 息苦しい。郷の薬師兼教師である魔術師の少年、マルクの一日は、大抵がその感覚によって始まりを迎えていた。 顔全体に押し付けられる、最高級のクッションのように柔らかく、しっとりとした感触。それが彼の呼吸器官を完全に塞いでおり、尚且つガッチリと後頭部に回された両腕でホールドされているのだった。 またか、と目覚めたマルクは辟易とするが、このままでは窒息は必至。もぞもぞと顔の角度を変えて、僅かに確保した隙間から酸素を確保すると、柔らかいその物体から頭を引き抜くべく、ベッドに両手をついて踏ん張った。 「ぅ……あん……っ」 なにやら青少年の神経に直撃する熱っぽい吐息が頭上から聞こえるが、今はそのようなことに反応している場合ではない。マルクは彼女が眠っていることもお構い無しに、ワインからコルクを抜くようなイメージでもって力を込めた。 「ふんっ、くっ……この……うわぁッ!?」 今日はなかなか手強かったようで、なんとか脱出は叶ったものの、勢い余ってベッドから転げ落ちた。 盛大に腰を打ち付け、そこそこ大きな音がしたはずだが、相変わらず彼女はベッドの上で先ほどの騒音にも勝る大イビキをかいている。 「まったく、あれほど寝床には入らないでって言ったのに……全然聞いてくれないんだから」 もぬけの殻になっている彼女本来の寝床であるベッドに目をやり、マルクは溜め息をついた。 そんな彼の気苦労など露知らず、眠りこける彼女の上で毛布を捜してゆらゆらと揺れるのは、ルビーのような煌めきの鱗に包まれた真紅の尻尾。 結局床に落ちた毛布を見つけることは出来なかったようで、自身の翼を布団代わりに再び深い眠りへと入っていくのは、マルクの同居人であるドラゴニュート、フレイアであった。 昨夜のフリュギアとの宴会による深酒と盛った薬の量から考えると、恐らく彼女は昼近くまで目覚めることはないだろう。 寝癖のついた髪を手櫛で整えながらカーテンを開いたマルクの表情が、驚きに変わった。 「あっ、今日は晴れてるじゃないか。ずいぶん久しぶりだなぁ」 数日前から間を開けぬ連日連夜の豪雨が嘘のように、今朝の空は澄み渡るような蒼。郷中が水浸しになるほど雨を降らせた雨雲は、今や何処にも見当たらなかった。 「今思えば、なんだか変な天気だったもんなぁ。今はそんな季節でもないし……」 ある程度気象を予測する知識を有するマルクをもってしても、不可解としか言い様のない雲の流れであった。 雲一つ無い青空が広がっていたかと思えば、どこぞの牧場から逃げ出してきた羊の如く雲が湧いて間髪入れずの轟雷豪雨。慌てて洗濯物を取り込んだところでまたもや快晴になったりと、自然現象とは到底考えられないサイクルを数回繰り返し、数日間にも及ぶ大雨の後、今に至る。 溜まりに溜まった洗濯物、そして長らく休校にしていた授業の再開と、やらなければならないことは山積み。奇怪な天候は昨日で最後にしておいてもらいたいところである。 「フレイア、ちょっと外の様子を見てくるから、帰ってくる前には起きててよ?」 「ん、ん~……」 わかっているのかいないのか、くるまった毛布の中から片腕を出して、フレイアは力なく手を振ってきた。この様子では、昼頃まで眠り続けることだろう。 とにかく、今は可憐さの欠片もない眠り姫に構っている暇はない。マルクは清々しい気分で日光降り注ぐ外へと続く扉に手を掛け、押し開いた。 「……え?」 開けて早々、マルクの口から思わず出たのはそんな声。 空は相変わらず晴れている。小鳥はさえずり、真っ青な空を駆けていく。広がる草原は風に揺れて、特段驚くようなことは何もない。 だが、マルクが驚愕したのは、昨日までの千変万化の天気ではない。瞳を丸くして見下ろす彼の視線の先には、同じく彼を見上げる瞳があった。 それは、マルクの膝下くらいの小さな紺色の来訪者。白銀の輝きを持つ三日月型の小さな角、手の平サイズの可愛い翼、ちょこちょこ動く短い尻尾にふっくらぽっこり出た柔らかそうなお腹。くりくりとした瞳が、じっとマルクを見上げている。 「ど、ドラゴン……なの?」 「シギャッ」 その姿形は、小さくとも見間違うはずもない、地上最強の生物、ドラゴンであった。マルクの呟きを肯定するかのように、小さなドラゴンは威圧感の欠片もない可愛らしい鳴き声を上げた。 何故、このようなところにドラゴン、しかも子供がいるのだろうか。マルクがしゃがんで目線の高さを合わせると、子ドラゴンも追い掛けるように彼の顔を見つめている。 そもそも、ドラゴンというものは渡り鳥のように世界各地を飛び回るような存在でもなければ、ドラゴニュートのように集落を作って群れるようなこともない。 生後、自力で飛べるようになったドラゴンは親元から離れ、雲を貫くような高山やマグマ沸き立つ火山などの人跡未踏の地に新たな住処となる巣を作る。 その後は自分好みの宝物の収集などに勤しむわけなのだが、見たところ目の前の子ドラゴンの翼はまだ小さく、飛べるほどの力は無いように思われた。 「キミ、どこから来たの?親は?一緒じゃないの?」 「シャ~?」 マルクの言葉が通じているのかいないのか、首を傾げる子ドラゴン。子供が成長するまでは親ドラゴンが常に寄り添うと聞いていたが、この子ドラゴンの親は数少ない例外であったらしい。 しかし、そうなると少々困ったことになった。まだ鱗が柔らかく、自衛手段を持たない子ドラゴンは非常にか弱い存在である。このまま放置すれば、貴重なドラゴンの個体数がまた一つ減ってしまうという事態も考えられた。 「…とりあえず、入るかい?」 「シャギャッ」 そもそもお人好しのマルクに見殺しにするという選択肢があるわけもなく、つい先ほど出てきた玄関の扉を開くと、子ドラゴンは翼を広げてバランスを取りながらトコトコと小走りに室内へと駆けていった。 マルクもその後に続くと、相変わらず奥の寝室からはフレイアの聞き苦しいイビキと歯軋りが聞こえてくる。子ドラゴンはそんな騒音など全く気にした様子もなく、興味津々に家の中を見回していた。 「そんなに家の中が珍しい?別に面白いものなんて置いてないけど」 「シャッ!シャギャッ、シャギャーッ!」 あっちへトコトコ、こっちへチョロチョロ。世界最強の生物と称されるドラゴンも、ここまで小さく無邪気な存在だと思わずマルクも頬が綻んでしまう。 「ああ、そうだ。ミルクとか飲むかな?確か、まだ残ってたと思うけど……」 床を駆け回る子ドラゴンを残し、キッチンへと向かったマルクは床下の氷室を開いた。彼の魔術によって作られた氷が敷き詰められた小さな石室の空間には、肉などの日持ちの悪い食材が保管されており、その中から、マルクは純白のミルクが満たされた瓶を取り出した。 「お待たせー、お腹空いてるでしょ?ミルク持って来たんだけど……あれ?」 戻ってきたマルクだったが、つい先ほどまで走り回っていた子ドラゴンの姿が見えない。テーブルの下、戸棚の中を確認するも、あの小柄な紺色カラーは欠片も見当たらなかった。 外に出ていった可能性を考えたが、あの小さな体格で器用に扉を開けられるとは考えにくい。加えて窓も完全に施錠されているところを見る限り、家の中にいることは間違いないだろう。 そうなると、あとは別の部屋に行った可能性だがーーー猛烈な悪寒が、マルクを襲った。 「まさかーーーうわッ!?」 どことなく震えている彼の呟きとほぼ同時に、奥からガラスが割れるような音が響き渡る。それも一つや二つではない、連続したものが。 音の根源は、マルクの研究室の方向であった。非常に嫌な予感を感じて駆け出したマルクだったが、目にしたのは僅かに開いた研究室の扉。それを開け放った直後、凄絶な絶望が彼を襲った。 「う……うぁあああ……っ」 ミルクの瓶を取り落とし、茫然として床に崩れ落ちるマルク。そこに広がっていたのは、見るも無惨な研究室の惨状であった。壁際の棚に並べられた試薬の瓶は全て床に落ちてその中身を飛び散らせ、ギルダーに頼んで揃えてきた研究用の装置や資材、書き溜めた研究資料がその薬品の海に沈んでいる。 そんな中、この惨状の元凶であろう子ドラゴンは、ちょこんと机の上に乗ってマルクを見つめていた。 無垢。あまりにも無垢。恐らく、彼は自分がどれだけ重大な事をやらかしたのか、何一つ理解してはいないだろう。 しかし、今回ばかりは寛容なマルクも看過出来なかった。顔を上げてキッと涙を浮かべた瞳で子ドラゴンを睨み付けるなり、足音荒く歩み寄っていく。 「なんて事をしたんだよ!貴重な薬草や薬をこんなにしてくれちゃってさ!まだ研究途中だったものだってあったし、ここまで行き着くのにどれだけ掛かるのかわかる!?もう……バカぁああーーーーーーッ!!」 「シャギャッ!?」 魂からの絶叫。相手が子供だろうがなんだろうが、恥も体裁もかなぐり捨てた全力のシャウトであった。 一方の子ドラゴンだが、言葉が通じないにしろ、怒鳴られているということは理解したらしい。プルプルと小さな体が震えたかと思えば、丸い瞳にこんもりと涙が浮かんだ。 「ダメダメ、泣いたってダメだからね!泣きたいのはこっちだよ!僕の時間と努力はもう返って来ないんだから!これから片付けないといけないし、他にもやることがいっぱいあるんだ!ちゃんと反省してよ、反省を!泣きたいなら泣きなよ、絶対に許さないから!」 「シャ……」 その時、ポロポロと大粒の涙が子ドラゴンの瞳から溢れた。
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