第一章【隣は何をする人ぞ】

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    1  4月の第2金曜日。朝7時。  スマホの小さな電子音に、女は目を覚ました。  佐野文香(さのあやか)、30歳。独身。  出身は山口だが、隣県広島の国立大経済学部を卒業し、そのまま同じ街の文具メーカーに就職した。  入社して8年。すっかり仕事にも慣れて、社内ではすでに古株の一人になりつつある。  南向きの八畳の洋室には、朝から明るい陽射しが差し込んで来る。  シンプルなすのこベッドから起き上がり、ベランダに面した窓を開けて、朝の空気を入れる。  ベッドサイドに置いた太めのゴムで、ストレートの黒髪ロングをポニーテールに纏めると、キッチンを抜けて、洗面所兼の脱衣所に向かう。  洗濯機も置かれたそこは、トイレと浴室に繋がっている。二畳ほどの狭さだが、元来物を置かない性格の文香だった。  白い乾燥機付き洗濯機の隣に、天井に達する高さのラックを一つ置いているだけで、リネン類は全てそこに収まっている。  冷水で顔を洗い、オールインワンの保湿ゲルで肌を整え、部屋着を洗濯機に放り込む。  下着姿のまま洋室に戻り、適当な服を見繕って、出社スタイルに着替える。  会社に制服はなく、ファッションは自由だった。ただしジーンズとスニーカーは禁止のため、皆それなりに、勤め人らしいファッションで出社する。  文香はいつも、開襟シャツにパンツ、ヒール低めのパンプスという恰好が定番だった。色も白、黒、ベージュのどれかで、髪は団子にして纏めていることが多い。冬にはそこにジャケットが加わる。  女性スタッフの多い職場ゆえに、皆がそれなりに個性あるお洒落を楽しんでいる社風だが、文香はお洒落に興味もなければ、ブランド品も欲しいと思ったことがない。  服装同様化粧にも関心はなく、出社時のメイクはファンデにアイブロウ、あとはブラウンのアイシャドウのみで、ルージュすら引かない。  通勤服はどれも通販で買ったもので、ノーブランドの安物だ。  買い物自体が好きでない文香としては、通販で済むものは全て通販で済ませたいのが本音だった。  ちなみにすのこベッドもドレッサーも、本棚もテレビ台も、全て通販で購入した。  おかげで週に一度は何らかの宅配が届き、各運送会社のお兄さんともすっかり顔馴染みだ。  着替えが済むと、二人用の小さなダイニングテーブルが置かれた、八畳のキッチンへ行く。
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