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「先生これ」
僕は紙包みを差し出した。
「シナモンシュガーのショートブレッドを焼いたんでよかったら汽車の中で食べてください。食事はきちんと抜かず、栄養も考えてくださいね。好きなものばかり食べちゃだめですよ。あと、休みはちゃんと取ること。夜更かしには気をつけてください。我がままを言って、画家仲間の人を困らせちゃだめですよ」
「お前はどうして最後までそんなに口うるさいんだ」
五歳の子供じゃないんだぞと、先生は顔をしかめた。
「だってもう、先生が飢えかかってもご飯を作りにいけないから。心配なんです」
「飢えるの前提か。ずいぶん信用ないんだな」
「あるわけないでしょうそんなもの」
家政婦一日目の惨状はひどかった。
「あの、先生」
僕が呼びかけると、先生は相変わらず不機嫌そうな視線を向けてくる。
「なんだ?」
行かないでって言ったら、思いとどまってくれる?
眼鏡の奥の深い藍色の瞳に無言で語りかける。しかし言葉では言えない。僕の口から出たのは、まるで別の言葉だった。
「またこっちに来ることがあったら遊びに来てください。アレックスの店に連絡してもらったら、どこにいてもつかまると思うから」
「・・・」
黙りこんだ先生が、いっしょに来てくれと言い出さないだろうかとしばし待った。でも、そんな都合のいい言葉が出てくるはずもない。
「じゃあ、僕行きますね」
僕は鞄の紐を肩にかけた。
「今までありがとう、ロラン。とっても楽しかった」
僕が右手を差し出すと、先生の大きな手が僕の手をつかんだ。
「俺も」
ぎゅっと力はこもったが、あっさりと離れていく。
「さよなら。ミッシェル」
別れの言葉が胸に刺さった。
「元気でね、先生」
僕は大きく手を振って背中を向けた。きつく唇を噛み締めた。追いかけてきて引き止められたらどこにも行かないのに。一緒に来てくれと言われたら、どこへだってついて行くのに。でも、先生は僕を追いかけたりしない。
僕は重くなる両足を励まして、玄関のドアまで歩いた。振り向いてもう一度先生の姿が見たかったけど、とても笑顔を浮かべられそうになくて振り返ることができなかった。
そうやって僕たちは別れた。何もせずに、自分の気持ちを押さえつけたまま。
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