<2> 酒家「彷膳茶社」

2/7
2202人が本棚に入れています
本棚に追加
/37ページ
 外套の不要な五月とはいえ、日が暮れてしまうと頬に感じる風が少し冷たい。  湖の上を渡って吹きつけてくる夜風に軍帽の下の横髪を靡かせつつ、実充は南泉についてこれ以上考えるのは止そう、と今日幾度目かの決意を新たにしていた。あの辞令を目にしてから一日、何度そう心に決めてもちらちらとあの男の影が脳裏を過ぎり、どこか職務が手につかない感じがあった。  実充を含む数名の在北京・陸軍駐在武官らの姿は、その夜、芳沢駐華公使(※1)の身辺警護のため、北京駐屯部隊とともに酒家(レストラン)「彷膳茶社(※2)」前にあった。  酒家「彷膳茶社」は、清朝滅亡で失職した宮廷膳吏(料理人)が、皇帝の禁園であった北海公園内北岸に数年前に開店させたらしい洒落た高級料理屋である。公園自体が、革命以後、数百年の封印を解かれるように市民に開放されたばかりだ。  今宵は、湖上に浮かぶ瓊華島の遠景や対岸の灯火を眺めつつ、芳沢公使が中国側の要人と面会する予定だった。  頬を撫でる湿った夜風は、警備に当たる実充の緊張を僅かだが和らげてくれる。  眼下に広がる黒い漣は、もはや海としか云い表すことのできない、広大な湖である。  この人工湖のみならず、公園内の瀟洒な歴史的建造物は全て数百年の間、歴代皇帝のためだけに造成されてきたという。この支那最古の御苑は元から明・清に至るまで、数々の王朝の栄枯盛衰を目にしてきたのだ。 「柚木、聞いたか」  いつのまにか実充の脇に立ち、こっそりと肘をつついてきたのは喜多淳博(きた・あつひろ)陸軍大尉だった。同じ支那課から出向の駐在武官で実充より2期上だ。三十歳だがこめかみの白髪のせいでもう少し老けてみえる。落ち着いた風貌の男だ。 「何をでありますか」  階級は同じでも喜多のほうが歳上の先任士官なので、実充は敬語を使う。 「郷崎(さとざき)少佐から今聞いてきたが、南泉のやつ、既に着任しているらしいぞ」  郷崎少佐は公使館付二等武官、つまり南泉の下であり、実充ら駐在武官の元締め的立場である。 「…もう北京にいるのでありますか。姿がありませんが。一等武官ならば芳沢公使のお供で姿を見せるべきだと思いますが」  南泉がもう北京に居ると聞き、実充は心臓を跳ねさせたが動揺は顔に出さず、周囲に目を奔らせた。 (1)芳沢謙吉…在1923-29中国公使。のち外務大臣 (2)彷膳茶社(彷膳飯荘)…瓊華島に移転し現存。 宮廷料理の老舗
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!