第1章

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   ぼくの家の近所には沼がある。  八郎沼と呼ばれていて、名前の由来はよく知らない。  なだらかな丘と林に囲まれ、沼の外周にはところどころに東屋があって、スイレンの葉が浮かぶ水には赤い橋がかかっていて、いつもカモが遊んでいる。  生まれた時からずっとそこにあったから特別何も思わないけど、見ようによっては結構いい場所かもしれない。  だって、前に京都に遊びに行った時に見たガイドブックに似たような沼が載っていて、その沼は扱いがえらく高尚で、なんだかすごくもてはやされていた。   あ、そうか。この沼に由緒ある寺や神社があったらよかったのか。惜しいな。でも、それでも有名になる気がしない。キャッチーな話題に乗る何かがないと、こんな田舎の地味な場所は全国に名をとどろかす有名スポットになったりしない。いいんだ。この沼は有名にならなくていい。ここはぼくにとって大切な場所だから。人がうじゃうじゃ押しかけてきたらイヤだもの。   沼にはカエルも、フナも、エビもいて、時々水底から大きな輪が浮かび上がって水面を揺らすから、子どもの頃からぼくは、そこには何か得体の知れない大きくてナゾの生き物がいるような気がしていた。   淀んで底まで見えない水の暗さが余計に想像を煽って、怖いけれども見てみたい、知りたくないけど知りたい、そんなゾクゾクがいつも背中の辺りにさわさわと忍びよる。   友だちと連れ立ってフナ釣りや虫捕りに来ることもあったけど、何もなくてもぼくの足は引き寄せられるようにここに向かった。しょっちゅう来ていた。    そして、小学二年の空がやけに明るい春の日、スイレンの葉の上にいた今まで見たこともない大きな牛ガエルを捕ろうと手を伸ばして、ぼくはあっさり沼に落ちた。    たかが七、八歳の時の出来事なのに、今でも鮮明に覚えている。  濃い桃色と薄い桃色と白という、まろやかさこの上のない色を持つスイレンの花の、妙にピンとした完璧なフォルムのこと。  まさに今、手に入ろうとしている、モーモーと哭く土色の巨大な牛ガエル。  手を伸ばした瞬間に聴こえた、トポンという小さな音。  いきなり激変した世界。  冷たさ。しまったという思い。恐怖。耳がキーンとする。
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