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あの夏の……
「絶対、いつか何万人もの人に私の歌を届けるんだ」
高校最後の夏休み、忍び込んだ屋上から見上げた空は目を細めるほど眩しくて、だからそう言った君の顔を、僕は見ることができなかった。
ただ、そう言う君の声が少しだけ震えていることに僕は気がついてしまった。
それは興奮からか、それとも夢を見ることへの不安からだったのか。それは今でも分からない。
逆光で影になった君の姿は夏の幻のように儚くて、だからだろうか僕の瞼の裏に強く、強く焼き付いてしまってそれは今でも離れない。
君の声が鼓膜を震わせ、君の奏でるギターが身体を貫く。その度に群衆は湧き上がり、拳を振り上げ歓喜する。
その細い体に何千もの人間からの興奮、期待、情熱を一身に受ける君は、今何を思っているのだろうか。
その瞳が見るのは、夢を叶えた後の世界なのだろうか。
君を照らすための照明は、見上げる僕に君を見えなくする。
あの夏の日と同じ、逆光の中の君の姿。
眩しくて眩しくて、僕は目を逸らしてしまう。
あの頃、僕は君の隣にいた。君の瞳にも僕が映っていた。
けれど今、君の瞳に僕は映らないだろう。
大勢の中の一人。それが今の僕。ただ遠くから君を見つめ、憧れることしかできない。
「愛してる」
僕たちにそう言った君の声は、やっぱり震えていて、あの日のことを思い出す。
影の中で君は笑っていた?
今の君はどんな顔をしている?
瞼の裏に蘇るのは、あの日焼き付いた君の姿。
僕の中ではあの夏の日で全てが止まってしまったのだろう。
あの日の君に縛られて一歩も動けない。
踏み出そうにも、大勢の人に阻まれて身動きも取れない。
この人混みを掻き分けて君の前に立てば、あの夏の日に置いてきた君の顔を、僕は取り戻せるだろうか。
ステージを飛び越えて君の前に立つ。
そんな自分の姿を夢想しては、大きな歓声で現実に引き戻される。
煌びやかな世界に生きる君と見上げる僕。
近いのに、遠い。
君と僕との距離。
いつか気づいて欲しい。僕は君を見つめ続けるから。
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