鏡像

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彼は生真面目な人間だった。 生まれて此の方他人に逆らったことなど無く、言われたことには忠実に首肯し、実行する人間だった。 いつしか彼は「犬」と呼ばれるようになっていた。 主に仕える犬──その渾名には「誰にでも喜んで尻尾を振る」という侮蔑の意味も含まれているのだと、彼は気付いていた。 「犬」は警察官になった。 指示には常に従った。 どれほど理不尽な命令であろうとも、どれだけ己が身を危険に晒そうとも、決して迷わず、黙して疑わず、過つことなく遂行した。 「犬」は組織の中でもとりわけ評判が良かった。 従順な姿に上司は満足し、誰にでも隔てなく平等に接する姿に同僚や後輩は敬意を払った。 だが、誰もが「犬」を理解しなかった。 何故そこまで従順なのか、何故そこまで生真面目なのか──その理由に思い至る者は誰一人としていなかった。 ……否、理解しなかったのではない、「犬」は初めから理解者を持つことを望まなかった。 自分の内面を知られることを恐れたからである。 彼は生真面目なのでなかった。 従うことこそが楽に生きる術だと知っていただけなのだった。 刃向かうことは精神を磨り減らす。 対立することは体力を磨り減らす。 それに気付いていたからこそ、彼はずっと生真面目な人間のフリをしていたに過ぎない。 他人はバカだ、と、ずっと思っていた。 自(おのず)から苦難の道を選ぶ他者が、どうしようもなく自分とは違う生き物に見えて仕方なかった。 だから「犬」と呼ばれることに抵抗はなかった。 自分はお前らとは違う、愚かしく生きるのが人間であるのなら俺は賢く生きる犬でいい──と。 あぁ、宜なる哉、世界とはこれほどまでに無能が集い、醜く歪んだ物である。 盲(めくら)どもが信奉するものを正義とし、正しい認識もせずに流されてゆく……果たしてこの世に大義は有りや? そんな「犬」も、いつしか己の愚に気付くことなく、一生を終えてしまった。
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