待合室の男

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 一歩、一歩、とてもゆっくりと、でも確実に進んで来る。  俺が座っている椅子の隣を通過する…。  熱でだるいのも忘れ、俺は勢いよく立ち上がると受付に駆け寄っていた。  事務員さんが、そんなに慌てなくても大丈夫だと笑いながら言ってくれる。その人に診察料を払い、薬を受け取ると、俺は待合室を一望した。  男の姿はどこにもなかった。さっきまで座っていた場所にも、俺が座っていた辺りにも…そう、待合室のどこにも。  俺が受付でやりとりをしている間、待合室に入って来た人はいない。出て行った人もだ。  なのに男の姿はどこにもなく、誰もそれを不思議がらない。  風邪の悪寒よりも冷たいものが背筋を駆け抜ける。それに身震いしながら俺は医院を後にした。  以来、内科の前を通るたびに思うことがある。  もしあの時、単なる同姓同名だと思い込んで男を見過ごしていたら、俺はどうなっていたのだろうか、と。  …あの時、横を過ぎようとする男はうっすらと笑っていた。それを見た瞬間、どうしてもこの男より先に自分が受付に名乗りでなければと思った。  そうしなければいけないと直感した。ただそれだけだ。行動に根拠はない。  それでも、俺は自分の判断が正しかったと思っている。  もしかしたら…本当に、もしかしたらの話だが、あの時反応しなかったら、今頃俺は、待合室の片隅の席に、うつろな目をして座り込んでいたかもしれない。  真実は判らないが、不思議とそんな気がしてならなかった。   待合室の男…完
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