僕の中の僕でない人

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「……まただ」  ベッドで瞼をこすりながら、伊勢谷晃(いせやあきら)はうんざり顔で呻く。  手術以来、もう何度見せられたか知れない夢。その中で晃は、なぜか病院のベッドに横たわり、呼吸器の動作音や心電図が発する無機質な電子音にぼんやりと耳を傾けている。  やがて、病室の扉が勢いよく開け放たれ、戸口から一人の男性が飛び込んでくる。  それは、決まっていつも同じ人物だった。細身のスーツが似合う精悍な顔立ち。すっきりとした細い顎と高い鼻筋、切れ長の眉目は、同性の目から見ても惚れ惚れするほど整って見える。が、夢の中では、その美しいはずの顔はいつも涙に崩れて見るに堪えなかった。  彼は、病室に現れるなり晃に目を向けると、決まって同じ言葉を口にした。  ――どうして……どうして、ひかりが。  そうして新たな涙を流す彼に、晃は、なぜか決まって強い罪悪感を抱いた。  この時、晃には何らかの理由で死が迫っていた。ただ、死への恐怖は意外にも希薄で、むしろ、目の前の彼を残して逝かなければならないことに晃は強い罪悪感を噛みしめていた。  ごめん。  本当にごめんね。  そんな謝罪の言葉だけを、薄れゆく意識の中で晃は何度も繰り返した。そして、夢の中で意識を失うのと入れ替わるように目を覚ませば、晃の枕と目尻とは決まって夥しい涙で濡れているのだった。 「……っ」  ああ、まただ。  彼のことを思い出すたび、晃の心臓は針で串刺しにされたような痛みに襲われる。手術直後ならともかく、半年が経つ今もこれだけ痛むのはさすがに不自然だ。  今から半年前、晃は心臓の移植手術を受けた。  拡張型心筋症。  心臓の筋肉が薄く拡張し、全身に血液を送り出す力が弱まってしまうこの難病は、基本的に心臓移植以外での根治は不可能だ。幼少期に病気が発覚して以来、入退院を繰り返しつつドナーを待ち続けた晃は、今から半年前、ようやく心臓の提供を受けられることとなり、待ちに待った移植手術を受けた。  手術は無事に成功した。少なくとも、晃の執刀医はそう述べた。懸念された拒絶反応も見られず、術後の経過も良好だ、と――だが。  だとすれば、この不可解な痛みの原因は何だ?  痛みを堪えつつ、パジャマ姿のままベッドを降りて洗面所に向かう。  鏡の前でボタンを解き、パジャマの前をそっと開く。鏡の向こうに立つ晃の喉仏からみぞおちにかけて、胸板を縦に二つに割るかのように一直線に傷が走っている。半年前の手術の痕跡で、今ではすっかり塞がっているものの、血管が透けて見えるほど生白い胸板に、薄紅色の手術痕はひどく目立って見える。  その、見るからに痛々しい傷痕に晃はそっと手を当てる。  とくん。とくん。  拒絶反応どころか、生まれた時からそこに収まっていたかのように穏やかに脈打つこの心臓は、半年前まで別の誰かの胸で拍動していたものだ。ドナーの個人情報は、少なくともこの日本においてはレシピエント、すなわち被提供者側に提示されることはない。この心臓の主がどんな人間だったかを知ることも、だから原則としては不可能だ――が、それは若い女性だったのだろうと晃は確信している。ドナーの心臓は、血液型が適合していることはもちろん、ドナーの体格に近いレシピエントにのみ提供される。一般に、心臓の大きさは持ち主の体格に比例しているからだ。その点、長い闘病生活で発育が遅れ、十七歳とは思えないほど小柄な晃の体格は、成人男性よりはむしろ女性のそれに近い。当然、与えられる心臓も女性のものである可能性が高くなる。それに――  ――ひかり。 「……うっ」  ずきり胸が痛んで、縋るように洗面台に取りつく。  あれは、明らかに恋人の名を呼ぶ声だった。たかが夢を根拠とするのも奇妙な話だが、それでも晃には、そうとしか考えられないのだ。  深呼吸を繰り返すうちに次第に痛みは治まってくる。しこりのような痛みはわずかに残ってしまうが、そこは気合で我慢すると、パジャマの前を閉ざして洗顔に取りかかる。  すすぎを終え、目の前の鏡を覗き込む。  十七歳にもなって髭の一本も生えない子供子供した顔。つるりとした丸顔と猫のように大きな双眸が、とくに幼さを際立たせている。見知らぬ人間に中学生と名乗っても、おそらく疑問を抱かれることはないだろう。  こんな自分でも、ちゃんと立派な大人になれるのだろうか――  とはいえ今は、生きているだけでも幸せだと感謝すべきだろう。移植手術を受けた患者の中には、どうしても臓器が適合せず、場合によっては直後に再移植、最悪の場合は命を落とすケースもある。その意味で、こうして呑気に自分の顔について悩むことができるのは、贅沢、と言っても差支えがないのかもしれない。  洗顔を終え、今度はリビングに向かう。  共働きの両親はすでに仕事に出かけているらしく、案の定、リビングはがらんとしていた。ただ、朝食の方は作り置きがなされているらしく、キッチンからは味噌汁の優しい匂いが漂っている。 「……ん?」  その匂いにふと晃は強い不快感を覚える。コンロに置かれたままの鍋の中を見ると、アサリの味噌汁がたっぷりと作り置きされていた。子供の頃から大好きで、入院時もこの味噌汁が出ると喜んで食べていた。  だが今は、どういうわけか匂いだけで吐き気を覚えてしまう。  とりあえず鍋に蓋をし、冷蔵庫から小分けサイズの牛乳パックと栄養ゼリーを取り出す。臓器移植を受けた患者は、臓器の拒絶反応を抑えるべく免疫の働きを抑える薬を服用する。その副作用として感染症への抵抗力が落ち、食事は滅菌処理された加工食品か、もしくは作られて二時間以内の料理しか口にできない。  とりあえずゼリーと牛乳で簡単に朝食を済ませると、室内用のスエットに着替えて自室に戻る。体力面、体調面の不安から通常の高校に通うことのできない晃は、今は通信制の高校に籍を置き、自室のパソコンで授業を受けている。昼間は体力の許すかぎりネット動画で授業を視聴し、提出用のレポートづくりに専念する。  だが、あの夢を見た日は大抵、授業に集中できずに過ごす羽目になる。気づくと、あの名も知らぬ男性を想い出している。薄れゆく晃の意識を引き留めるかのように、晃、いや「ひかり」の名を呼ぶ彼の姿を。
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