第十三章 筆折り損の

1/9
98人が本棚に入れています
本棚に追加
/139ページ

第十三章 筆折り損の

 羽川が帰っていくのを俺は見送らなかった。  これでいいんだと思う。  先輩後輩の体で仲良くしてきたくせに冷たかったかとふと思うが、俺にはもう"先輩"を演じる必要はなくなった。  俺らが男女ならきっと見送ったりしたら変だと思うだろうし。  これで…よかったんだ。  使い慣れた路線を考え事に没頭しながら乗り継ぎ、自分の足が向くまま俺は歩いた。  まっすぐ地元の駅へ戻り家とは違う方向へ角を曲がる。  そして俺の足はそのまま電車の音がする線路沿いへ引き寄せられた。  途中で自分が向かっている場所を自覚してもそのままずんずんと歩いていく。  訪ねたところで相手の不在は目に見えていても他に行くべき場所は思い当たらない。    目的地で立ち止まりデクノボウのように、いや、不審者のように俺は井上の住むアパートを見上げた。 「いるわけないよな…」  平日の昼間だ。  健全な会社員が自宅にいる確率は低い。  案の定井上の部屋の窓に人の気配はない。 「どうしよう…」  情けないことにここへ来るまで、直接会いに行って会えなければそれはそれで気が楽だと少しだけ思っていた。  でも実際はそうでもなかった。    井上のいないアパートを見て俺はひどく気落ちし、焦っていた。  早く会って、好きと伝えて、あの告白が有効かと聞きたかった。  もう羽川とみたいにすれ違うのは嫌だ。  今俺がたしかに望むものがあるとすれば、それは井上しかいない。    スマホをタップして電話しかけてやめる。  向こうはきっと仕事中だ。  うちでスーツを仕立てるほど上から将来有望視される井上を私情の電話で邪魔したくはない。  ならばとラインを開いてどう切り出すか打っては消すを繰り返す。 「ああ、もう。だめだ…」    
/139ページ

最初のコメントを投稿しよう!