第十三章 筆折り損の

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 そして俺は結局、階段をのぼり井上の部屋の前までやってきた。  幸運にも井上のアパートはセキュリティには無頓着なようでとりあえず窓の位置から予測した扉の前に座り込む。  そんな不振な行動も誰にもとがめられないどころか人の一人も通らない。  真昼間から待っていたって仕方のないことくらいわかっている。  それでもどうしてもここを動きたくなかった。 「早く…帰ってこいよ…」  漏れ出したひとり言にどんな情緒不安定かと自分でも少し笑えて苦笑いが浮かぶが、見せる相手のいない虚勢はあまりに味気なく俺の顔はいつもの真顔に戻る。  日が暮れ徐々に気温も下がっていく。  座り込む間井上のことばかり思い返していた。  自分だけわからないふりをして井上から逃げたくせに、どんな顔で会えばいいだろう。  旅行先から戻ってからずっと胸はチクチクと痛んでいた。  旅館の朝、俺のわからないという言葉に傷ついたような井上の一瞬だけの表情。  見ないふりをしただけで見過ごすことなどあるはずがなかった。   「…何してるんだよ俺…」  いくらでも他に言い方があったのに、あれ以外の言葉を持たなかった自分が恨めしい。 「それはこっちのセリフだろ。何してんの」 「へ?」  まさかの返答に顔を上げると井上が俺を見下ろしていた。 「井上っ」  弾けるように立ちがある。  俺に見下ろされた井上は俺の店のスーツ姿で顔をしかめていた。 「俺を待ってたつもり?」 「…すみません」 「そこ俺の部屋じゃないから」 「え」 「ほんとお前さあ。俺の部屋、こっち」  井上は紙袋を持った手で隣の扉を叩く。 「あてずっぽうにもほどがあるだろ」 「 ああ…」 「しっかりしてると思うとたまに抜けてるよな」  なんて言おうかと迷って井上の顔を見つめると、井上はすぐに顔を背けて部屋の鍵を差し込んだ。
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