32人が本棚に入れています
本棚に追加
/131ページ
第一章
線香の香りが狭い居間に漂っている。聞こえてくるのは、しゃがれ声の僧侶が読む経の音。
桜井楓菜は小さな祭壇の前に置かれた棺桶をぼんやりと見つめながら座っていた。
十畳にも満たない居間には楓菜と僧侶の他に喪服姿の者が四人。静かに、顔を俯かせて座っている。
楓菜は祭壇に置かれた写真に目を向けた。まだ幼さの残る少女の写真は、おそらく六、七年前に撮ったものだろう。ぽっちゃりとした顔に満面の笑みを浮かべた彼女は高校の制服を着ていた。
新しい写真が見つからなかったのだろうか。それとも、撮ることがなかったのか。記憶のままの彼女の顔を、楓菜はじっと見つめていた。
「ありがとうね、桜井さん」
経が終わり、僧侶を見送ってから一人の女がそう言って近付いてきた。白髪交じりの髪。かさついた肌は青白く、口角は下がり、目の下には濃いクマが浮いている。彼女は力なく微笑んで祭壇を振り返った。
「伊織の友達で来てくれたのは、あなただけだったから」
「ええ。そうみたいですね……」
本当は、楓菜も知らなかったのだ。彼女が亡くなったことなど。おそらくこの母親も、彼女の同級生に連絡する気はなかったに違いない。家族だけで見送るつもりだった。だから自宅葬を選んだのだろう。
「一昨日、メールがきたんです。伊織さんから」
「メール?」
「はい。そのメールで、彼女の様子が少しおかしかったから心配になって」
そして昨日の夜、自宅を尋ねると彼女は亡くなっていた。楓菜は祭壇に視線を向ける。参列者はもう誰もいない。寂しい通夜だ。きっと明日は、もっと寂しい葬儀になるのだろう。
「……伊織さん、なぜ亡くなったんですか?」
「事故、だったのよ。たぶん」
「たぶん?」
「ええ。あの子ね、いきなり悲鳴を上げながら家を飛び出して行ったの。そして、道路に飛び出して車に……」
ふうっと彼女は深く息を吐き出した。
最初のコメントを投稿しよう!