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「この前は、すいませんでした」
彼はまた、申し訳なさそうな声を出す。
大丈夫でしたか? ときかれて、はい、と笑顔で答えた。
月明かりが、彼の彫の深い顔に作った影が、微笑みとともに大きくなった。
「どうしてここに?」
そうきかれて、訪れた雑貨屋が定休日だったのだと告げた。
「あなたは?」
きいたあと、私はさっき彼が出てきたビルを見あげた。蛍光灯ひとつ点いていない真っ暗なビルは、どう見ても廃ビルそのものだった。
「あそこの路地を抜けると、僕が借りている駐車場までの近道なんです」
指さしながら、優しい声でそう言った。
「奇遇ですね」
「ほんとに」
それだけを言って、私たちはお互いの名前もきかないまま、頭を下げて別れた。
彼の姿が見えなくなっても、しばらくムスクの香りだけが私の周りを漂っていた。その香りは、また彼に会えることの予感を、私に感じさせた。
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