下野の国より

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   下野(しもつけ)にある古寺の伝承より。  建立されたのは、1657年(明暦3年)  おりしも、江戸の大半を焼いた火事があった年である。  寺の名称は、明暦寺(仮名) その寺は何百段もの石段を登った山頂にあった。中腹に休憩所があり、参拝客はそこで茶を飲んだり、握り飯を食い、休憩を済ませるとそこからさらに、急峻な石段を登っていく。  さて、江戸の大火の被害者たちが、遠路はるばる明暦寺まで避難してきた。土地の者たちの大半は彼らを快く受け入れたが、一部の者たちは彼らの避難を拒んだ。災難が自分たちにも降りかかると思ったからだった。反対者たちは、被災者たちが寺の階段を登り始めると、休憩所の先の石段に罠を仕掛けたのである。  それは、「苔」だった。寺のお堂裏に群生する苔を採ってきて、石段の上にばらまいたのだ。  何も知らない避難者は、石段の苔を踏みつけて、足を滑らせ、転倒した。急峻な階段で足を取られたらどうなるか。将棋倒しのように、後につらなる人々を巻き添えにして、転がっていった。  当然、死人もでた。  それから、数年後。   その階段だけ、苔が生えるようになった。ほかの石段は全く生えなかった。  参拝客は苔段を飛ばして歩いたが、苔段を踏んだ者は原因不明の病気になって死亡、または事故死した。  中には忽然と姿を消した者もいて、なんぴとも消息を知る者はいなかった。  明暦寺は呪われた苔寺として有名になり、参拝客は激減、やがて廃寺となり、立ち入り禁止となった。  年月がたち、1904年(明治37年)。朽ち果てた寺は修復され、石段もきれいに並べ変えられた。新たな参拝客をとりこみ、村おこしをして、地域の活性化をはかる政策であった。  だが、それでも例の石段にだけは苔が生え続けたのである。   今度は踏みつけても、不幸になる者はいなかったので、かつての言い伝えを気にする者はいなくなった。しかし、その年の暮にチフスが流行して多くの村民が死亡した。疫病の流れは止まず、翌年も村中に蔓延したのだ。  再び、明暦寺は全面立ち入り禁止となった。山全体も封鎖されたのである。  2016年(平成28年)  周囲の環境が整備されて、恰好の観光地に様変わりした。      
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