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「じゃ、トイレから戻ってきたら声かけてあげてよ」
無理だよ、と心のなかで呟いた。尚人は曖昧に笑って、彼女に背を向けた。
幸運にも、『トイレはこちら』と書かれたプレートが、ちょうど視界に入って来た。
逃げるようにトイレに駆け込む。入ったとたん、籠っていた熱気が全身に纏わりついてくる。腕の毛穴から汗が浮いた。ぱっと見、先客はいないようだった。念のため一つある個室を一瞥するが、ドアは開け放たれていて、白い洋式の便器が鎮座しているのが見えるだけだ。尚人はほっとしながら、洗面台の蛇口をひねった。勢いよく流れてくる水に、脈打つ手首を当てて熱を冷ます。飲みすぎていたし、目当ての女性は今日の飲み会に参加していなかった。散々だった。私物は持ってきたし、飲み会の会費も先払いしている。このまま帰ってしまおうかと考えたとき、背後でキィッとドアの開く音がした。反射的に後ろを振り返ると、トイレに入って来た男が、「あ」と声をあげた。
「風無だよな? ひさしぶりだな」
「え?」
「覚えてない? 五十嵐だよ。中学のとき同じクラスだったんだけど」
覚えていなかった。気まずくなって、尚人は愛想笑いを浮かべた。
「ごめん、覚えてない」
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