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君影草は幸せの帰りを待っている。
朽葉色の小さな木造建築物。
入口には葡萄棚の様な囲いがあって、アイビーが生い茂っている。
短いその囲いを潜ると掠れた格子窓、建付けの悪そうな開き戸には立派な銅の引き金が設えられていて、扉の右手に「君影草」と銅板に焼き付けられている。
鈴蘭の鉢植えが置いてあり、少し甘い香りが鼻腔を掠めて行く。
店内に入ってもそこへ来た記憶は無かった。
芳しい珈琲の薫りと甘い菓子の匂い。
ただ、自分のラインに残っていた「君影草」と言う店の名を頼りに此処まで来てみただけだった。
「いらっしゃいませ」
イタリアンカラーの真白なシャツにベスト、ギャルソンエプロンを付けた初老の給仕が銀製のトレイを脇に抱えて迎えてくれる。
「窓際の奥の席、空いてますか?」
「どうぞ」
事故に遭って二ヶ月以上が過ぎていた。
歩道を歩いていたのに無茶なスピードで向かいから走って来た自転車を避けようとして電柱に左側頭部を強くぶつけてしまい、怪我は大した事無かったが記憶を数年分欠損した。
それでもラインに残っていた「窓際の一番奥の席に座って待っている」と書かれていたのを頼りに、その席を指定した。
「何になさいますか?」
「あ、えっと……じゃあ、ホットを」
「今日はケーキは宜しゅうございますか?」
今日は――?
前にも来た事あるんだろうか。
伏し目がちに目線を落とした初老の男性にジッと視線を向けてみたけれど不思議そうな顔をされてしまった。
「あ、じゃあレアチーズを一緒に……」
「かしこまりました」
ラインの一番上にあったのは同級生で同じ職場に勤務している遥と二番目に幼馴染の裕ちゃんだった。
そしてその次にどう記憶を引っ繰り返しても知らない茂吉と言う名前。
その私の過去のどこにも行きあたる事が無い茂吉と言う人の手掛かりを探してラインの履歴に残っていたこの店へと足を運んだのだが、記憶を掠る事も無い。
茂吉と言う名前については裕ちゃんにも遥にも分からないと言われた。
あの二人に内緒にしているなんて、私にとっては異例中の異例と言っても良い。
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