そこでしか話せない

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 冷気が肌を刺す。  息が切れる。  それでも、葛西は全力で走った。  こんなに走ったのは義務教育時代に強制された徒競走以来だ。  だが、あの時とは違う。  今、葛西は誰からも走れと命令されていない。  足を前へと繰り出させるのは、葛西の意思だ。  公園には数台の報道陣と業者がいた。  業者の男は黒いゴミ袋を持っており、その袋が膨れていることに葛西は震撼した。 「すみません……。すみません!」  乱れた呼吸に耐えきれず、咳き込む。  男は葛西に気づき、立ち止まった。 「クロが。……猫が」 「飼い主さんですか?」  飼い主。  葛西はその言葉に抵抗を感じた。  飼い主じゃない。  一緒に料理を食べ、話をした。 「友達です」  男は頬を引きつらせたが、どんな猫なのかと尋ねてきた。 「黒猫です。オッドアイの」 「……どうぞ」  男が袋を開ける。  葛西は立ち眩みを覚えながら袋を覗き込んだ。  白猫。  灰色の猫。  茶色の猫。 「いない……?」 「そんなはずは」  男が袋を漁る。 「どうしてだ? 消えてる」  男が静止する。 「本当に黒猫はいたんですか? 見間違えたんじゃないですか?」  男は何も言わない。  同じ格好で固まっている。  報道陣も同様にピクリとも動かない。  鳩は羽を広げたまま、噴水は水を放出した状態でとまっている。  音もなく喉元に鋭い銀色を当てられ、葛西は肝を冷やした。  弧を描いた形状。  鎌だ。 「クロ君ならいませんよ」  背後で、例の喫茶店の店員がフッと笑う。 「汗だくになって走るような人だとは思いませんでした」 「クロは?」 「死にましたよ。昨日、あなたが僕の喫茶店を去るのと同時に」 「嘘です。死体がない。クロは生きている」 「……確かに、僕が見つけたとき、クロ君は瀕死でしたが息はありました。もしかすると、あなたのような親切な人が病院へ運び、生き延びていたかもしれません。でも、僕も命を刈るのがメインの仕事なので、判断をクロ君に委ねたんです。生きる可能性を残すか、それとも、僕と取引をするか。彼は迷わず僕と取引をしました。そして、あなたが喫茶店へ来た。彼は思いを遂げたんです。今はまだ、あの喫茶店で控えてもらっていますが、時期にあの世へ橋渡しをします」
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